黒柴スポーツ新聞

ニュース編集者が野球を中心に、心に残るシーンやプレーヤーから生きるヒントを探ります。

トータルでまとめればいい~桑田真澄の理想の投球数とは

一つミスをしたら引きずる方だ。大事なのはその次、なのに。一つ一つ丁寧に作業をするのは長所だとは思うが……。そんな自覚があっただけに、偶然見かけた桑田真澄のインタビュー記事(「逆風を楽しむ野球人生だった。-桑田真澄」文・石田雄太さん、Number PLUS September 2009 完全復刻版 桑田真澄に収録)は、なるほどなと腑に落ちた。ピッチャーにとっての理想は全員三振の81球か、全員打ち取っての27球なのか。桑田真澄の答えは「130球」だった。

Number PLUS 桑田真澄 完全復刻版 (Sports graphic Number plus)

Number PLUS 桑田真澄 完全復刻版 (Sports graphic Number plus)

  • 発売日: 2009/08/07
  • メディア: ムック
 

 

理想のピッチングは130球。桑田はこう解説していた。
だから、方法は一つじゃないということです。たとえば、三振が取れる日は三振を多く取ればいいし、コントロールが冴えている日は、コーナーを突いて打たせて取ればいい。その日、その日によって、自分のピッチングスタイルを変えていく。もちろん、完璧な130球を投げることはできませんけど、ミスを次の1球でカバーしながら、130球で完璧な試合を作ることはできるんです。それは長年の経験から身につけたいくつもの引き出しを自由自在にあけて、こういう配球もある、こういうフォームもある、こういう投球術もあるというふうに、選択肢を持って、ピッチングをしたかったということなんです

心の野球 超効率的努力のススメ (幻冬舎文庫)

心の野球 超効率的努力のススメ (幻冬舎文庫)

  • 作者:桑田 真澄
  • 発売日: 2015/04/10
  • メディア: 文庫
 

 

深い。何球で投げたいか、という問いに対する回答はピッチャーの気質を端的に表しそうだが、この桑田の答えはいかにも、と言いたくなる。無理をせず、合理的。クレバー。桑田真澄のピッチングそのものだ。だがピッチングなんかする機会のない一般人にも当てはまるような考え方だと思った。特に私は冒頭に書いたようにミスを引きずりがちだから、トータルで考えればいいんだ、と割りきれた。「完璧な130球を投げることはできない」と桑田が言っていて救われた。言われてみたらその通り。完璧そうに見える人でも実際ミスをしている。ミスをしていないように見えるのはリカバリーやその後のフォローが上手なのだ。「ミスを次の1球でカバーしながら、130球で完璧な試合を作ることはできる」とはそういうことだ。そう、トータルでうまくやればいいのだ。

桑田真澄 ピッチャーズ バイブル (集英社文庫)

桑田真澄 ピッチャーズ バイブル (集英社文庫)

  • 作者:石田 雄太
  • 発売日: 2007/09/20
  • メディア: 文庫
 

 

アラフォーともなると若いときのような球速は出せなくなるかもしれない。だとしてもアラフォーには経験がある。桑田が言っていた「引き出し」だ。これを桑田が言っていたように「自由自在にあける」ことがポイント。必要な時に必要なケアをする。驚いたのは桑田が「こういうフォームもある」とフォームを変える意識を持っていたことだ。プロ野球のはピッチャーともなればいつどんなときでも自分のフォームを崩さず投げることが理想とばかり思っていた。そう、時には投げ方すら、変えていい。大事なのは結果を出すこと。フォームは手段でしかないのだから。

なるようになる~日本ハム宮西13年連続50試合登板に挑む

今回のネタは新聞記事から。おそらく共同通信配信の「記録に挑戦 2020プロ野球」に日本ハム宮西尚生が取り上げられていた。気になっていた。宮西は12年連続50試合登板中。2020年はプロ野球が開幕ができておらず、できても予定していた試合数の消化は難しい。すなわち、宮西の登板自体も例年通りの数にはならないのではないか……。けが以外に宮西の記録を危うくするものが現れるとは思ってもみなかった。

そんな宮西がこの状況をどうとらえているのか。興味深く記事を読んでみたが「いつ登板するか分からないリリーフみたいなもの。なるようになる」。言われてみればその通り。確かにリリーフ投手は自分で登板のタイミングを選べない。行けと言われた時に投げるからそもそも受け身の立場。それでも、なるようになる、とは、記事にあるように「百戦錬磨の鉄腕らしくどっしり構えている」と思った。

ソフトバンクファンの黒柴スポーツ新聞編集局長としては、宮西が出てくると楽しくはない。抑えられかねないからだ。しかし左バッターとの駆け引きはたまらない。例えばバッターが中村晃だったら。もうボール1個分あるかないか、外角で出し入れする宮西。それを見極めたりファウルにする中村晃。これを試合の分岐点でやるのだからたまらない。マニアック、渋すぎる。珍味を食するような楽しみかもしれないが、野球バカにはたまらない勝負だ。そんなことを宮西はずっとやっている。常にギリギリの勝負をしてきたからこそ「なるようになる」という境地になれるのだろう。だとしても見習いたい。宮西みたいになるのであれば、やはり厳しい場面の場数を踏まなければならない。

試合数が例年通りにいかないわけで、宮西もいけるなら無理してでも……と記録にチャレンジするためにフル回転で飛ばしたいようだ。しかし「万が一、達成できなかったとしてもそれはそれで仕方ない」と達観しているという。これは口ではそう言ってもなかなか割りきれない。ライバルチームのピッチャーではあるけれど、宮西は素晴らしいなと思う。以前筒香の回でも書いたが、やはり一流プレーヤーは考え方、ピンチの受け止め方も一流だ。

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リリーフ投手は常に準備が求められるし、常に結果が求められる。どんなにそれ以前に抑えていてもその日打たれたら厳しい評価が待っている。先発投手の勝ちを消してしまうことさえある。やって当たり前の職種の人は本当に大変だなと思う。じゃあそういう職務の人はどうやって仕事に向き合っているのかと興味深いが、宮西の記事を参考にすれば「なるようになる」と思うしかないのではないか。考えても仕方ない。やるしかないし、結果がうまくいかなければそれを受け止めるしかない。シーズン中は嫌でも次の試合がやってくる。大事なのはその次の機会にうまくまとめることなのだ。すぐさま宮西のような境地にはなれないだろうけれど、とにかく一つ一つ、やるべきことを丁寧にやるしかないんだな。記事を見てあらためてそう思った。

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監督のガッツポーズはありなのか~明石商業の狭間監督を野球に戻した妻の言葉

web Sportivaの記事、明石商・狭間監督がマイナスから目指した甲子園「初日で辞めようと思った」(文・沢井史さん)を読んだがなかなか面白かった。正直なところ、狭間監督が甲子園で見せた派手なガッツポーズには違和感があったのだが、記事を読んで見方が変わった。やはり物事は表面だけを見てはいけない。

101年目の高校野球「いまどき世代」の力を引き出す監督たち

101年目の高校野球「いまどき世代」の力を引き出す監督たち

  • 作者:大利実
  • 発売日: 2016/07/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

狭間監督が明徳義塾中の指導者として全国制覇などの結果を残されていたことは、実は明石商業が甲子園出場を決めてから知った。狭間監督がどのような経緯で明徳義塾中で指導するようになったのか、どうして明石商業に行ったのか深くは知らなかった。記事によると、狭間監督は日体大卒業後、兵庫県内の高校に講師として赴任。コーチとして指導はしていた。しかし常勤の教員の枠は狭く、一度は一般企業に就職したという。ここが最初の分かれ道。だいたいは折り合いをつけざるを得ず、そのまま希望を断念する人が多いと思う。結婚後、明徳での指導役という選択肢が浮上した時、背中を押したのが妻の言葉だった。
『ネクタイ姿よりユニフォーム姿のほうがいいんじゃない。私は行ってもいいよ』って言われて決心したんです」(記事より)

ネクタイ姿よりユニフォーム姿のほうがいいんじゃない。これを言われた時、狭間監督は心底うれしかったのではなかろうか。自分の良さ、自分の思いを分かってくれる人がいる。たった一人でもそんな人がいれば救われる。勇気が出る。こうして狭間監督は明徳中に行ったのだった。

高校野球界の監督がここまで明かす! 野球技術の極意

高校野球界の監督がここまで明かす! 野球技術の極意

  • 作者:大利実
  • 発売日: 2018/06/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

詳細は沢井史さんの記事を読んでいただくとして、これだけ野球に心血を注ぐ監督だから、あんなガッツポーズが出てしまうのだな、と見方が変わったというわけだ。そしたらあらためて、狭間監督の采配を振り返った。甲子園、宇部鴻城と2-2で迎えた10回裏、明石商業は1死満塁からスクイズを敢行した。「狭間監督はこういう場面でもスクイズをやってくる」と解説者も話しており、宇部鴻城バッテリーもそこは警戒していたはずだ。その中でバッターはきっちりやや三塁側にスクイズし、三塁ランナーは素早くホームを踏んだ。ここが素晴らしい。得てしてスクイズはホームに滑り込む場面が多いが、ホースアウトになるのを防ぐためにはいち早くホームを駆け抜けねばならない。スクイズの方向、走り方。狭間監督が細やかな指導をしていることがうかがえた。監督が前に出すぎることは賛否あると思う。しかし生徒と一体になっているのであれば、熱くなるのはありではないか。一人の生き方さえ変えてしまう甲子園。現状では開催が難しいかもしれないが、できればこんな熱い場面を今年の夏も見れたらな、と願う。

感謝の気持ちを持つ~家事をするソフトバンク今宮健太と和田毅

コロナウイルス感染対策により、これまでの日常とは変わってしまった。その中でも前向きに生きる人はいる。私も見習いたい。先日はこのような記事が目に留まった。時事通信の記事「自主練習で気付くありがたみ 練習環境や家族の支え―プロ野球ソフトバンク」だ。今宮健太和田毅が紹介されている。自主トレでは裏方さんの存在に感謝。家事をすることで家族のありがたみを感じているそうだ。

今宮健太は皿洗いやおむつ交換をしているという。普段ならば三遊間の深いところから打者走者をアウトにする今宮の肩、腕が家事に活用されている。もともと犠打が多いプレーヤーでもあるが(2019シーズン終了時で通算299個、歴代7位)、おむつ換えなどまさに奥さまへのさりげない送りバント的な優しさ。もっとも、育児は両親の仕事。今宮とてシーズン中だからなかなか育児に関われなかっただけで、今のように時間が許せば手分けして育児をやっていたことだろう。

和田毅は料理に挑戦。「自分はずっと外で野球をして、家に帰ったら食事など当たり前のものがある光景を見てきた。妻も大変なことをこなしていると感じたし、自然と感謝の気持ちが芽生えた」(時事通信記事より)。あの甘いマスクでこの優しいコメント。奥さまもうれしいのではなかろうか。あのクールなサウスポーが包丁を握ったら、どんな料理が出来上がるのだろうか。

だから僕は練習する 天才たちに近づくための挑戦

だから僕は練習する 天才たちに近づくための挑戦

  • 作者:和田 毅
  • 発売日: 2020/02/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

かくいう私も朝、余裕があれば家事をしてから出勤している。料理はめっぽう弱いが皿洗いはできる。まだまだ手伝い程度だから書くほどのことはないが、手伝ったからこそ今宮や和田の気持ちが少しは分かる。普段から家事をしてくれる家族への感謝の気持ちが自然とわき起こるのだ(いつまでも手伝いレベルじゃダメですね)。コロナウイルス感染のいち早い終息を願いつつ、混乱が落ち着いてもこの感謝の気持ちは持ち続けようと思う。

人を引き付ける野茂英雄のひたむきさ~小松成美「遠すぎた甲子園」を読んで

2020年5月2日で、野茂英雄がメジャーデビューしてから25年だという。新聞記事で見た。野茂英雄のメジャー初勝利やノーヒットノーランのニュース、苦労の末たどり着いた日米200勝などなど、その都度胸踊らせたなと思う一方、こうも思う。やはり一番似合っていたのは近鉄バファローズのユニホームではなかったか、と。しかしさらにその前のアマチュア時代が名実共に野茂の原点だったことを、「遠すぎた甲子園」(小松成美、Number臨時増刊「甲子園・熱球の詩」掲載)で知った。

完全保存版野茂英雄1990-2008

完全保存版野茂英雄1990-2008

  • 発売日: 2008/12/05
  • メディア: ムック
 

 

この作品はNumber PLUS January 2009で見つけた。野茂英雄特集であるため、古本屋で買っていた。小松成美作品を読むのは初めてだったが、読みやすく分かりやすい。入団2年目の1991年に野茂本人や成城工高関係者、新日鉄堺関係者に取材したものだが、証言自体がまず面白い。それをうまく小松成美さんが構成していると感じた。具材そのものがおいしく、それを引き立てるパン生地。極上のサンドイッチを食べるような感覚である。野茂に関してドラフト会議からしか知らなかった黒柴スポーツ新聞編集局長としては、野茂英雄が成城工2年の夏、大阪府大会2回戦で完全試合をしていたことを知らなかった。しかもその前の1回戦では先輩投手の後5点リードでマウンドに立つも、乱調で危うく同点にされかかったほどだったというから驚いた。

野茂に1回戦翌日「2回戦、先発で投げてみるか」と監督が言ったのは直感というからこれまた驚き。ただ監督には自信があったという。また野茂にとってありがたかったのはチーム全員が「次は絶対に大丈夫や、いいピッチングができるに決まってる」と励ましてくれたこと。野茂の学年は仲が良かったそうだが、もう一つのポイントは野茂が信頼に値する子だったからと思う。高校時代の練習は厳しく、特にピッチャーは走り込みを課されたが野茂は泣き言を言わずひたすら走ったという。例えば800メートルの外周10周に80メートルダッシュ30本などなど。朝練にいくため野茂は始発に乗り通学していたという。「やめたろう、行かんとこう」と思いながら3年生になるまで過ごしたというが、ひたむきに頑張る姿勢が評価されていたのだと思う。

「派手な投球シーンではなく、汗を滴らせ、ときには両手に小さなバーベルを持って黙々と走り続ける野茂の姿は、誰の目にもしっかりと焼きついているのだ。その無心な横顔は、彼の人間的な魅力のひとつとして、人々の心を引き付けていく」(「遠すぎた甲子園」より)

 

もう一つ印象に残ったくだりは、野茂の最後の夏。4回戦は土壇場で同点に追い付き、野茂は延長戦で力投。最後は味方のサヨナラ二塁打で勝った。殊勲の代打、大手茂は控えの選手だった。打った大手も、手を差し伸べた野茂も泣いていた。
「あの試合のことは、一生忘れられません。僕たちの学年は、みんな仲が良くてね。大手君の活躍が自分のことのように嬉しかったんですよ。大手君はレギュラーじゃなかった。チームの怒られ役というか、監督によう怒鳴られていました。そんな彼が、ヒーローになったんやから、感激でしたよ。ベンチでは全員が泣いていましたね」(「遠すぎた甲子園」より)

八月のトルネード

八月のトルネード

  • 作者:阿部 珠樹
  • 発売日: 2009/05/16
  • メディア: 単行本
 

 

「流されず、自分をしっかり持て」と言ってくれた新日鉄堺の先輩。共に高校野球に打ち込んだ仲間たち。その後大リーグを身近なものに感じさせる「パイオニア」になった野茂英雄の原点はまさに高校時代にあったことがよく分かる作品だった。ネタバレになるので書かないが、新日鉄堺入りした野茂が、さらに飛躍するきっかけになった登板が描かれて「遠すぎた甲子園」は終わる。成功者も、というか、成功者になるには一定の挫折が必要なのかと最近は思う。

僕のトルネード戦記 (集英社文庫)

僕のトルネード戦記 (集英社文庫)

  • 作者:野茂 英雄
  • 発売日: 1997/07/18
  • メディア: 文庫
 

 

「遠すぎた甲子園」を読むと余計に甲子園開催を願いたくなる。まずはコロナウイルス感染症がこれ以上拡大しないことが絶対条件だ。高校最後の舞台は野球に限らない。そして、スポーツ選手のためだけではないけれど、一人一人が努力の積み重ねの成果を発揮できるよう、社会全体で今一度感染症対策に努められればと願う。

心の隙間は誰にもある~北原遼三郎「完全試合」黒い霧事件・田中勉の章を読んで

ここのところ黒い霧事件に関わった元プロ野球選手について書いてきた。前回は池永正明が出てくる高山文彦「怪物の終わらない夜」(単行本「運命」に収録)を取り上げた。その中で混乱してしまった。池永に八百長依頼の現金を渡した元西鉄投手の田中勉の処分について、「怪物の終わらない夜」では厳重戒告処分と書いてあるが、Wikipediaの「黒い霧事件」では「なし(事実上の永久追放)」と書いてある。田中勉は前年の1969年をもって、当時所属していた中日を自由契約になっていたからだ。このため1970年の関係者処分では田中勉は対象にならなかった、と北原遼三郎「完全試合」(東京書籍)にも書いてあった。私は知っていた。田中勉完全試合達成者だった。日本で15人しかいない大記録達成者の一人、田中勉はなぜ池永正明に現金を渡しにいってしまったのか。「完全試合」を読み返してみた。

完全試合―15人の試合と人生

完全試合―15人の試合と人生

 

 

田中勉は1966年、南海戦で完全試合を記録した。三池工業高校からノンプロの東洋高圧大牟田に進み、都市対抗野球で活躍。1961年、西鉄ライオンズに入団した。以後7年間で84勝。1963年は17勝8敗で最高勝率に輝き西鉄5度目の優勝に貢献。完全試合を成し遂げたのは入団6年目のことだった(「完全試合」では入団5年目と書いてあるが誤りと思われる)。この1966年は23勝12敗。「完全試合」にも書いてあるが、「この年が、結果的に彼の野球人生の絶頂期だった」。Wikipedia田中勉の年度別勝利を見てみたが9シーズン中で6年連続6度の二桁勝利。当時は20勝くらいしないと評価されなかったかもしれないが、チームに貢献していたと思う。

そんな思いもあっただろうか。田中勉は肘や膝を傷めたり腰痛が再発したりと苦しんでしまう。球が走らないから打たれる。肘が痛むと練習を休む。コーチには怠けていると見なされてしまった。球団からは22%のダウン提示を受けた。田中勉の不満は爆発。トレードを希望したところ、広野功との交換で中日入りした。中日初年度の1968年には11勝だから、まだまだ田中は結果を残せた。しかし翌1969年シーズン前半で8勝を挙げオールスター戦に選ばれるも、肩の痛みに苦しんでしまう。オールスター戦も辞退した。ギャンブルに手を出したのは中日移籍後からだった。オートレースにはまってしまった。「たまたまやり始めた」そうだが負けがこんでしまった。古里の九州を離れた心の隙間をギャンブルが埋めてくれたのだろうか。だとしても心を癒すことにはならなかった。むしろ傷口は広がってしまった。そして有能な後輩の池永正明をも巻き込んでしまった。「完全試合」を読むと、魔の手は池永正明を狙っていたようだ。田中勉は借金の棒引きをにおわされ、池永へのメッセンジャーになってしまった。

 

田中勉完全試合達成の試合、9回に自らのタイムリーでチームに追加点をもたらした。打ったのは南海の名投手・杉浦忠から。野村克也に対しても広瀬叔功に対してもブルームに対しても、田中勉は速球で立ち向かい完全試合を成し遂げた。
西鉄ベンチから『ウォー』という鬨の声が上がった。この瞬間、西鉄ナインが一斉にベンチを飛び出していった」(「完全試合」より)
仲間に祝福された田中勉。この3年後の1969年をもって球界を去り、1970年には池永正明永久失格処分にさせ、自らが西鉄ライオンズ崩壊の一端になろうとは想像もしなかっただろう。田中勉にしてみればまさかそこまでになるとは思わずに池永のもとに向かったのだろうが……。田中自身は八百長を3回頼まれ、八百長に失敗するとその「損失」を返せと要求された。関係を絶ち切ろうと家まで売ったが悪魔に蝕まれてしまっていたのだろう。もしも強気のピッチング同様、勇気をもって最初から断っていたなら……と今更ながら思う。と同時に心の隙間は誰にもあるわけで、絶好調の時期から一転、不遇の時期になった時こそ気を付けたいものだ。移籍や人間関係。黒い霧事件に巻き込まれた人々は数奇な運命によってつながっている。黒い霧事件に限らず事件とはそんなものだろうか。巻き込まれないためにはどうしたらよいのか。時代が令和に変わっても、黒い霧事件から学ぶべき点はある。

 

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黒い霧事件で消された西鉄ライオンズの名投手・池永正明~高山文彦「怪物の終わらない夜」を読んで

前回、後藤正治さんの「不屈者」に収録されている「幻の史上最速投手」を取り上げた。黒い霧事件に巻き込まれた東映フライヤーズの元投手、森安敏明の物語だ。今回はそこから派生して、同じく黒い霧事件により大好きな野球を奪われた西鉄ライオンズの元投手、池永正明の物語を紹介する。テキストは高山文彦著「運命[アクシデント]」。

運命(アクシデント)

運命(アクシデント)

 

 

プロ野球選手が八百長行為をしたとされる黒い霧事件では、選手6人が永久追放になった。そのうちの2人、森安敏明は、敗退行為をしてもらうために別の投手に渡してくれと託された金を返しそびれた。池永正明は元西鉄の先輩投手、田中勉(当時は中日)から八百長行為を頼まれ現金を渡されたが、先輩の顔を立てて返しそびれた。森安、池永はそれぞれ八百長行為を否定したが、永久失格処分が下されてしまった。1970年のことだった。

「運命」(文藝春秋)は単行本で、三つの選手のストーリーで構成されている。最初が、守備中に吉村禎章と激突してしまった元巨人の栄村忠広を取り上げた「ライジンク・サン」。二つ目が池永の物語「怪物の終わらない夜」だ(三つ目はバイクレーサー、ウェイン・レイニーの「汝自身の神」)。栄村忠広については以前取り上げたので(黒柴スポーツ新聞注目記事でなぜか常に上位)そちらをご覧ください。

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黒い霧事件に巻き込まれた森安敏明もかわいそうだが、池永正明を追放したことは球界の大損失だった。池永はプロ入り後の5シーズンで99勝。「怪物の終わらない夜」で紹介されているが、高卒後の5年で池永を上回るのは稲尾和久の139勝、金田正一の100勝だけだ。ほぼ順調に二桁勝った松坂大輔ですら67勝だったから、いかに池永が有能だったか分かるだろう。こんな名投手が八百長をやること自体あり得ないのだが、事件後の姿から垣間見える池永の一本気な性格からしても、八百長行為を承知して金を受け取ることも考えられない。「怪物の終わらない夜」に書いてあるが、池永に金を渡した田中勉自身、雑誌の取材に「人に言われてとにかく池永に渡してくれといわれた金だった。私は池永は絶対に受けとらんと思っていた。金なんかで動くはずがない。金を渡してくれと言った男に私はそう言ったんだ」と答えている。ここで思う。じゃあなぜ池永に金を渡しにいってしまったんだよ、と。田中自身、金を返すに返せなかったのか。

池永正明と、その時代

池永正明と、その時代

  • 作者:岡 邦行
  • 発売日: 1996/08/01
  • メディア: 単行本
 

 

「怪物の終わらない夜」でも主張されているが、黒い霧事件の処分は不可解だった。八百長を働きかけた田中勉は厳重戒告処分(と作中では説明されているが、疑惑のかかった田中は1969年に中日を自由契約となり、そのまま引退となったので1970年裁定では処分対象にならなかったと、北原遼三郎「完全試合」で紹介されている)。池永の永久追放とは雲泥の差だ。これについては、見逃せない発言が「怪物の終わらない夜」に紹介されている。田中勉は重い処分にならない代わりに、ある球界筋から口止めされたというのだ。「あの当時、西鉄以外の選手で、実際に八百長をやった選手は今すぐにでも70人の名前を出せますよ」。70人という数字がどうかは分からないとしても、この田中発言は重い。「怪物の終わらない夜」で書いている通り、「この話がほんとうであれば、池永は人身御供にされたと言えなくもない。消えたのではなく、消されたのだ」

 

なお、Wikipediaの「黒い霧事件」には「一方で、この事件が結果的に後の野球人生にプラスの影響をもたらした選手もいた」として、黒い霧事件でズタボロになり低迷した末に球団が売却された西鉄以降西武まで奮闘した東尾修が紹介されているが、冗談じゃない。文中にあるように東尾が数字を残せたのは彼が努力したことと「結果的に」であって、決してプラスの影響はなかったと思う。東尾は愛する野球を奪われた池永の無念が分かるからこそ、池永が引退後に開いた中洲のバー「ドーベル」に通ったのではないか。

ドーベルは2007年に閉店したそうだが、「怪物の終わらない夜」では店の様子が丁寧に描かれている。「池永さん、希望を有り難う!!」などなど、店のトイレには池永を思う落書きで埋め尽くされていた。なお、「怪物の終わらない夜」はもともとNumber PLUS August 1999 スポーツ最強伝説③に掲載されており(タイトルは「海峡-池永正明の半生」)、そのカット写真としてトイレの落書きを確認することができる。「海峡」というタイトルだった意味はぜひ作品を読んでかみしめていただきたい。

「怪物の終わらない夜」はこんな場面で終わる。森安の遺影を持った池永が、オールスター戦、野球殿堂入り表彰後の芝生の上に立っている……という高山文彦の想像だ。高山文彦も、池永正明も、それが実現すればという思いではあったが過去に池永の復権運動が実らなかった経緯もあり、二人とも本当に淡くはかない期待を何ミリかしか持っていない雰囲気だった。期待すらしていなかったかもしれない。だが思いはついに結実した。2005年、池永正明復権が認められたのだ。永久追放処分から35年たっていた。
これは喜ぶべきことかもしれない。しかしそれ以上に忘れてはいけないと思う。濡れ衣を着せられた池永さんの無念さを。愛する野球を奪われた池永選手の悔しさを。野球は最高の自己表現だったに違いない。野球を奪われた池永さんの、事件後の人生も大切だがやはり現役時代の輝きは特別だった。だからこそ言いたい。その人らしさを奪うようなことはあってはならない。組織の論理で個人が抹殺されることはいまだになくなっていない。黒い霧事件のような悲劇が二度と起こらないよう、一人一人の人生が尊重される社会であれと強く願う。

単純ではないソフトバンク二塁手~オールマイティー山田哲人VS周東、牧原、明石、川島

プロ野球が開幕しないうちから、というか開幕できないからなのだろうが、AERA.dotがさらっと山田哲人の動向どうなる記事を紹介していた。「巨人? ソフトバンク? 山田哲人が移籍したら“最もフィット”するチームは…」という見出しだったので、ソフトバンクファンの黒柴スポーツ新聞編集局長は反応してしまった。そして反論したくなった。確かに山田哲人はいい選手だし、ソフトバンクも獲得に動く可能性はあるけれどもソフトバンクのセカンドはそんなに単純なポジションではないのだ!と……

 

山田哲人二塁手。格別守備がうまい印象はないが、過去3年間は菊池を上回るリーグトップの補殺数を記録している、と記事に書いてあった。山田哲人といえばトリプルスリーが代名詞。走れるのも魅力だ。まさに走攻守、三拍子そろっている。トリプルスリーといえば柳田悠岐も記録したから、山田哲人ソフトバンク入りしたら同じフィールドに同じユニホームの二人のトリプルスリープレーヤーが立つことになる。これは史上初ではなかろうか? このように、山田哲人がいい選手であることは間違いない。

 

でも、である。確かにソフトバンクのセカンドは週替わり、あるいは日替わり的なポジションかもしれない。しかし近年のソフトバンクの野球は全員野球であり、その弾力的な選手器用を可能にしているのはセカンドが固定化されていないイコール可変であるからだとは言えまいか? 例えば川下慶三。左殺しの異名を持ち、代打や代走で入りそのままセカンドへ。明石は2019年シーズン、チーム最多の62試合でセカンドのスタメン出場を果たしたが他の選手を使う場合は代打に回る。

さらに2019年、離脱者やけが人続出のソフトバンクを支えた一人に牧原大成がいる。牧原が内外野を守れることで、例えば明石や川島がセカンドに入るなら牧原が外野に回るなど、効果的に人材が活用できた。不動のスタメンがいればチーム力が安定するのだが、ソフトバンクの場合は出る人出る人が活躍することでチームに勢いが出ている。そんな印象があるのだ。

デスパイネやグラシアルという実績ある外国人選手がいながらまだバレンティンを獲得したソフトバンク。3年連続で日本シリーズを制したとはいえ実はレギュラーシーズン、2年連続で西武の後塵を拝したのも事実。球団が遮二無二勝とうとするならばサクッと山田哲人争奪戦に参加しそうだが……黒柴スポーツ新聞編集局長は密かにソフトバンクのセカンド争いフェチなので、山田哲人が不動のセカンドになってしまったらスタメン発表いや、スタメン予想から楽しむというルーティンがなくなってしまう。

大事なことを忘れていた。セカンドといえば売り出し中の周東がいるじゃないか。周東にしてみれば2019年に代走でブレイクしたが、バッティングはまだまだ。セカンドの定位置を奪うことで「走」以外をアピールしていかねばならないわけで、周東にしてみれば一刻も早くプロ野球が開幕してまずはスタメンに定着したいと考えているのではなかろうか?

オールマイティーな人が職場にやってきた時、一芸に秀でた人々はどうやって生き残ろうとするのか。山田哲人ソフトバンクに来たら来たで、個性的なプレーヤーたちがどうアピールしていくのか。興味深いなと思う。

幻の史上最速投手・森安敏明の人生は幸せだったのか~後藤正治「不屈者」を読んで

先月、この黒柴スポーツ新聞がご縁となり、2冊の本が売れた。澤宮優さんの「あぶさん」になった男 酒豪の強打者・永渕洋三伝 (角川書店単行本)と、沢木耕太郎ノンフィクションI 激しく倒れよ(文藝春秋)。いずれも黒柴スポーツ新聞で取り上げさせていただいた作品だ。筆者が素晴らしいから、作品が面白そうだから、今は家で過ごすことが推奨されているから……などなど、本が売れる要素はあるが、よい作品がどなたかと共有、共感できたことがとてもうれしい。今回取り上げる、後藤正治さんの「不屈者」もぜひ面白さを分かち合いたいと思う。

不屈者

不屈者

  • 作者:後藤 正治
  • 発売日: 2005/12/15
  • メディア: 単行本
 

 

「不屈者」は5人の人物のストーリーが一章ずつ並んでいる。最初に出てくる「幻の史上最速投手」の主人公は森安敏明。東映にいたピッチャーである。岡山の関西高校時代から有名で、平松政次(岡山東商高出身、大洋)、松岡弘(倉敷商高出身、ヤクルト)と共に岡山三羽ガラスと言われた。高3の夏は平松と甲子園をかけて東中国地区の決勝で投げ合った(結果は2-1で岡山東商高がサヨナラ勝ち)。だが、平松が200勝を達成したり、松岡がヤクルト時代日本一になるなどの栄光に輝いたのと対象的に、森安はあの事件に巻き込まれたことでダークな印象になってしまっている。いわゆる黒い霧事件のことだ。

 

ざっくり言えば、森安は八百長行為を行った西鉄ライオンズの投手、永易将之から、翌日登板予定のピッチャーに50万円渡してくれと札束をポケットにねじ込まれた。返そうと思っているうちに永易の八百長疑惑が発覚し、森安は返せない金を使ってしまったという。八百長に関しては否定している。
[裁定主文/森安敏明投手に対し、全国プロフェッショナル野球機構のあらゆる職務につく資格を永久に否認する]
「幻の史上最速投手」には1970年7月30日付の裁決文が紹介されている。森安は黒い霧事件最後の追放者であり、永久追放された選手の中には西鉄ライオンズ池永正明もいる(池永は35年を経て2005年に処分解除)。

 

後藤正治さんが森安に関して書いたのは、著作「スカウト」の主人公、木庭教(きにわ・さとし)や「牙」の主人公、江夏豊が口をそろえて、速球投手の名前に森安敏明を挙げたからだった。そしてずばりそうとは書いていないが、いつまでも黒い霧事件の当事者(本人が敗退行為を否定しているにもかかわらず、だ)としてしか語られない森安の本当の姿を書きたかったのだと思う。

スカウト

スカウト

 

 

仲のよかった江夏を筆頭に、高校時代のライバル平松政次、対戦相手の土井正博、恩師、同級生、永久追放後に出会ったスナック経営者、そして森安の奥さん。後藤さんという人はどのくらい時間をかけ、どのくらい丁寧に話を聞いて作品を仕上げているのか。毎回作品を読むたび感心してしまうのだが、「幻の史上最速投手」を読むと読者も一緒に、森安敏明をめぐる旅をしている感覚になる。その中でも、特に印象に残ったのが大村三郎のくだり。元ロッテのサブローだ。サブローは何と小学生時代に2年間、森安から野球の手ほどきを受けていた。
「個人練習が終わると、森安の家に立ち寄る。大村少年はジュースを飲み、男は酒を呑む。ころっと顔つきも変わって、『優しいオジサン』になった」
このくだり最高。森安の指導はシャドーピッチング1時間やら腹筋500回やら、なかなか厳しかったらしいが、サブロー少年には純粋に野球を愛する姿勢が印象に残った。サブローのくだりだけでも、森安が潔白であると確信できる。

「幻の史上最速投手」の中で後藤さんは、ただ単純に、黒い霧事件に巻き込まれた森安をかわいそうな人物としては描かない。森安とゆかりのある人の語りから、少々脇の甘さはあったかもしれないがひたむきに野球に向き合った一人の人物像を浮き上がらせている。後藤さんが森安の生涯をどう結論付けたのか。私は物語の締めくくりを読んでとても救われる思いがしたのだが、ぜひ「幻の史上最速投手」を読んで皆さんにも考えていただければと思う。

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有森裕子が求めた走る意味、生きる根拠~後藤正治「ロード」を読んで

昨日、沢木耕太郎の「儀式」を取り上げた。儀式の中では次のくだりが心に残った。
栄光を手にすることは非常に難しい。しかし、失った栄光を忘れ去ることはもっと難しいものなのだ。そして、さらにいえば、失った栄光を再び手にすることの難しさは、それらの比ではない。
表彰、評価の類いから縁遠い黒柴スポーツ新聞編集局長にしてみれば、そんな苦しみは別次元のものに思える。だが、栄光をつかんだ人にしか分からない苦しみはあるんだな、と別の作品を読んで学ぶことができた。昨日も紹介したNumber15周年特別編集 20代のテクスト「スポーツを読む」。に収録されている、後藤正治有森裕子 『ロード』。」だ。

有森裕子は1992年バルセロナ五輪でマラソン銀メダル、1996年アトランタ五輪で銅メダルを獲得した。この「ロード」が収められているNumberは1995年発行。有森裕子バルセロナで結果を出した後、苦しんでいた。故障もあったが何より、どう生きるかという問いに対して、だった。

それって、ぜいたくな悩みだなと思う人がいるかもしれない。編集局長も同感だ。銀メダル取ったんだから上等じゃない、何を悩むことがあるんですか?と。しかし有森裕子の悩みはもっと深いものだった。「ロード」の中ではこう書かれている。
自分の求めているのは“走る根拠”だった。もっといえば、“生きる根拠”だった。

「我が道」有森裕子

「我が道」有森裕子

  • 発売日: 2018/03/30
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
 

 

後藤作品のオーソドックスな手法なのだが、後藤正治さんは関係者を丁寧に描くことで、主人公の輪郭を際立たせる。「ロード」では指導者として金哲彦、小出義雄が出てくる。そして、同時代に活躍したランナーの山下佐知子森下広一も取り上げている。有森はバルセロナ後、レースから遠ざかる時期があったが、山下も森下も不完全燃焼の時期があったそうだ。二人に迫ることで、後藤さんは有森裕子が向き合った悩みの普遍性にたどり着いた。有森裕子にとって、苦しいことを頑張るのは辛くなかった。辛かったのは頑張れる対象がないことだった。マラソンは走る根拠を問わずにはおれない競技でもあったのだ、と後藤さんは書いている。

「結局、どう生きるかということなんですね」
取材に対して山下佐知子がそう話した。

後藤正治さんはこう解釈した。
「私は、マラソンランナーたちと出会って、彼らがマラソンランナーという存在故に、この問いを放射しつづけていることを感じた。とりわけ有森裕子には濃厚だった。だから彼女に引きつけられたのだと思う。それはマラソンランナーたちだけではなく、私たちの、私自身の、いま現在の問題でもあったからである」
いかがだろう。アスリートに限らず、いかに生きるかは重要だ。迷惑さえ掛けなければ、みんなが生きたいように生きられる社会であってほしいと思う。どの人生だって、主人公は自分自身なのだから。復活のレースで勝った有森裕子アトランタ五輪で銅メダルに輝く。この復活劇をかみしめると、何だか自分自身も救われる気がする。いつか自分も報われる日がくるんじゃないか、と。

ジャンボ尾崎がつかんだ、勝利より大切なものとは~沢木耕太郎「儀式」を読んで

沢木耕太郎のノンフィクション「儀式」を読んだ。「激しく倒れよ」に収録されている。主人公は尾崎将司。プロゴルフの世界で活躍した「ジャンボ尾崎」だが、彼は元々プロ野球選手だった。黒柴スポーツ新聞編集局長はゴルフ知識に乏しいのだが、元プロ野球選手の話、という入り口から「儀式」にたどり着いた。そしてしびれた。沢木耕太郎の将来を決定付ける作品だし、今さら紹介するまでもなかろうが、まだの方にはぜひ読んでいただきたいと思う。

沢木耕太郎ノンフィクションI 激しく倒れよ

沢木耕太郎ノンフィクションI 激しく倒れよ

 

 

尾崎将司は徳島海南高校時代、センバツで優勝。スカウト合戦の末、西鉄ライオンズに入る。だが投手としての成績はパッとせず、打者挑戦も泣かず飛ばずに終わった。だが尾崎将司には別の道があった。ゴルフである。

着陸の日まで ―尾崎将司とその時代

着陸の日まで ―尾崎将司とその時代

  • 作者:佐藤 朗
  • 発売日: 2019/07/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

「儀式」には転職、というキーワードが出てくる。甲子園に出た海南高校の同級生らは約半数が転職した。沢木はその「変わり身の速さ」に注目したが、それには理由があった。1995年11月2日発行のNumber 創刊15周年特別編集 20代のテクスト「スポーツを読む」。に書いてあるのだが、沢木耕太郎は別の取材の過程から、若者の転職に着目していたのだった。ちなみに「儀式」はこのNumberにも収録されている。儀式についての本人解説付きだから、このNumberはどうにかして手に入れていただきたい逸品と推薦しておく。沢木は、尾崎も高卒の転職者だから何かしら書けるかなと思ったわけだが、その視点はそれほど重要なものではなくなっていく。同世代人としての尾崎に引かれていったからだ。

儀式の舞台は1971年の日米対抗ゴルフ。人気が出てきた頃の尾崎将司が有力選手らと出場したのだが、その試合展開と尾崎の人生を交互に描いている。この手法にたどり着くまでに時間を要したものの、沢木は「スタイル」を手に入れた。確かにゴルフの試合が進むのと、尾崎将司のエピソードが交互に出てくるので、非常にドラマチックに読める。もし別々に書かれていたら、片方はゴルフの観戦記、片方は尾崎将司の足跡以上のものにはなり得なかっただろう。黒柴スポーツ新聞編集局長も、このようなスタイルにいつか挑戦してみたいと思う。

前回、沢木耕太郎「さらば 宝石」を取り上げた時はタイトルが分かりにくいと思う、との感想を書いた。今回は全く逆。ネタバレになるので書かないが、もう「儀式」以外のタイトルはあり得ないくらいにゾクゾクする締めくくりだった。着地がピタリと決まるというか、もう鳥肌が立つような……えっ、これを23歳の沢木耕太郎が書いたのかと驚いた。早熟すぎる。もちろん後にノンフィクションの世界でたぐいまれな才能を評価されるのだが、沢木自身「はじめの一歩」と認識する「儀式」の完成度の高さには舌を巻いてしまう。編集者も徹夜で付き合った末の作品らしいが、こんな作品を書き終えた時の彼らの感動を自分も感じてみたいなと思った。もちろん黒柴スポーツ新聞編集局長も元新聞記者だから、手応えは何度も感じてきた。現場を離れて久しいが、この感動はぜひもう一度味わってみたい。感動の前にはものすごい「産みの苦しみ」があるのだけれど。

若き実力者たち

若き実力者たち

 

 

「儀式」を解説した「はじめの一歩。」で沢木は、スタイルと同時にスポーツの世界、勝負の世界を書くという「ジャンル」を手に入れた、と書いている。黒柴スポーツ新聞編集局長もそれがやってみたい。尊敬する後藤正治さんは自身を特にスポーツノンフィクションが専門とは思われていないそうだが、スポーツには勝負とか人生とか、人間性が凝縮されているのでスポーツの現場が多いみたいなことを言われていたような記憶がある。編集局長は単純にスポーツが好きなこともあるが、後藤さんのように人間性を追う観点から、今後もスポーツ選手を追い、スポーツ中継を見て、独自の解釈を加えていこうと考えている。

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最年少2000安打の榎本喜八は引退後なぜ走り続けたのか~沢木耕太郎「さらば 宝石」を読んで

昨日、西本幸雄元監督生誕100年を勝手にお祝いしてブログを書いた。1960年に大毎オリオンズを率いて出た日本シリーズスクイズを失敗。それがオーナーとの決別につながったことなどを書いた。

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このエピソードが出てくる作品がもう一つある。沢木耕太郎の「さらば宝石」。沢木耕太郎ノンフィクションⅠ(いち)激しく倒れよ(文藝春秋)に収録されている。今回はこれを取り上げる。

沢木耕太郎ノンフィクションI 激しく倒れよ

沢木耕太郎ノンフィクションI 激しく倒れよ

 

 

「さらば 宝石」の主人公はE。屈指の好打者だった。スポーツに強い黒柴スポーツ新聞の読者ならお分かりだと思うので書いてしまうが、Eとは榎本喜八である。2314安打を放ち、かつ、史上最年少での2000安打達成者である。2020年シーズンに巨人の坂本勇人が2000安打を達成した場合、その時期によっては史上最年少記録が更新されたのだが、プロ野球開幕の見通しが立たない今となっては大記録樹立は絶望的だ。そんな中だからこそ、最年少2000安打男ってどんな人なの?と知る意味でも今「さらば 宝石」を読むことは面白いと思う。

作品は一つの噂から始まる。引退したはずのEがいまだにハードトレーニングをしている。どこかのチームが戦力として呼びにくると信じているらしい、というのだ。あり得ない話。とあっさり言えないのが榎本喜八。彼は求道者なのだ。たとえ1日に4安打しても、体(たい)が生きて間(ま)があったものだけがヒットと考える榎本は、納得がいかなければ部屋の中でグリップを握って考え込んでしまう……そんな選手なのだった。沢木耕太郎は作中に「overreach」という単語を用いた。ニューヨーク・タイムズ元記者でノンフィクションライター、ゲイ・タリーズの著作に「The Overreachers」という作品がある。盛りを過ぎた人々をゲイ・タリーズはそう名付けた。overreachには背伸びし過ぎた、行き過ぎたという意味があるが、沢木耕太郎は「行き過ぎた」の語感を重要視した。榎本喜八をもそう見ていた。

沢木耕太郎が、榎本喜八のターニングポイントに挙げた事件こそ、西本幸雄監督によるスクイズ失敗だった。榎本喜八は大毎ミサイル打線の一角を形成していた。田宮謙次郎榎本喜八山内一弘、葛城隆雄と並ぶミサイル打線は超重量級だったが、日本シリーズ第2戦のヤマ場で榎本喜八にバントさせるなどしてたどり着いた満塁のチャンスで西本監督は谷本にスクイズをさせた。しかしキャッチャーゴロになり突っ込んできた三塁走者はタッチアウト。打者走者も一塁でアウトになりチャンスはついえた。その夜西本監督の自宅に永田雅一オーナーから電話が。「あんな消極策をなぜとったのだ」云々。西本はこう応じた。「作戦は監督の直感によって決めるものだ。だからこそ責任もとる。だが、無責任な評論家が事後にいうことによってなにかをいわれるのは心外だ」……。馬鹿野郎→撤回してください→シリーズ後に西本監督辞任の流れは昨日書いた通り。この一件でチームはどんどん崩壊していく。西本は去り毎日新聞が経営から手を引いた。榎本喜八の師匠、荒川博は追い出され、山内と葛城はトレード。田宮は監督とそりがあわず引退。作中の表現通り「一瞬のうちにミサイル打線は崩壊した。そしてEだけが残った」。

打撃の神髄 榎本喜八伝 (講談社+α文庫)

打撃の神髄 榎本喜八伝 (講談社+α文庫)

  • 作者:松井 浩
  • 発売日: 2016/02/19
  • メディア: 文庫
 

 

しかし榎本喜八はバッティングに専念できず彼自身も「壊れて」いく。日米対抗のゲーム前にダグアウトで一時間以上座禅。自宅に猟銃を持って立て籠る。荒川が駆けつけてドアを開けると発砲した(天井へ、だが)。選手としてのピークを過ぎたり、奇行が聞こえてきたりしたら、そりゃどのチームからも声は掛からないだろうと思う。榎本喜八はオリオンズから西鉄ライオンズにトレードされ、引退した。ミスターオリオンズとさえ形容された男にしては寂しい結末だった。

消えた球団 毎日オリオンズ1950~1957

消えた球団 毎日オリオンズ1950~1957

  • 発売日: 2019/06/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

だが榎本喜八は結末と思っていなかった。榎本がハードトレーニングをしているのはそういう意味だった。「ともあれ、Eが『さらば 宝石』といわないかぎり、overreacherとしての彼の物語は完結しない」。沢木耕太郎はそう書いたが、個人的には作品タイトルにもなったこの「さらば 宝石」が分かりにくかった。野球場のダイヤモンドにさらばと言うかどうかというくだりがあるのでダイヤモンドを宝石に置き換えたのだろうが、詩的すぎてリアリティーが感じられなかった。ノンフィクションの名手であり、異を唱えるのはおそれ多いなとも思ったが、いち読者としての率直な感想だ。もう少しスポーツを連想させるタイトルでもよかったんじゃないかと思う。エキスを書いてしまったらネタバレなんじゃないかと思われそうだが、沢木作品はこのくらいではびくともしない。ぜひ「さらば 宝石」本編を通してお読みいただき、榎本喜八がなぜ引退後も走り続けたのか、想像してみてください。

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悲運の名将は信念の人~勝手に西本幸雄元監督生誕100年読書企画

4月25日は故・西本幸雄監督生誕100年の節目だった。西本監督を慕う山田久志オリックス球団の企画で、京セラドームでメモリアルゲームが行われる案があったが新型コロナウイルスの影響で開催できなかった。メモリアルゲームどころかプロ野球自体が行われていない。大変な状況だ。そんな中ではあるが、野球バカならできうる限り西本監督ワールドに浸りたい。そこで、野球本が詰まった本棚を漁ってみた。巣ごもりが奨励される今、読書や調べものをしたりしてマニアックな野球ネタに浸りたい方の参考になればと思う。

西本監督と言えば大毎を率いて出た日本シリーズ中、作戦についてオーナーに介入されたことを受け入れず、シリーズ後に辞任したエピソードが有名だ。あまりに有名すぎてエピソードが衣をまといすぎ、どれが本物か分からない。まずは立石泰則著「魔術師」〈下〉三原脩西鉄ライオンズ(小学館文庫)第17章 三原魔術 より。日本シリーズ第2戦でスクイズに失敗した西本監督は後援者に誘われて料亭で飲んでいた。励まされていたのだ。そこに永田雅一オーナーから電話が入った。「あのスクイズは何や、ウチは、ミサイル打線だぞ」。しかもおれの隣には中沢不二雄パ・リーグ会長と鶴岡一人監督もいるんだぞとけしかけてきた。もうこの時点で西本監督に寄り添いたくなるのだが、ひるまないのが西本幸雄。「中沢さんや鶴岡さんといえども、いまのオリオンズの状態を一番把握できているのは、私以外におりません」。西本監督はきちんと作戦の妥当性も説明したのだがまず自分が一番現場を把握していると言い切る姿勢が素晴らしい。そう、監督とはマネージャーなのだ。おれがきっちりマネジメントしてるんだから四の五の言いなさんなということだが、それをオーナーに言うところが偉い。しかし永田雅一は受け入れず「鶴岡やそこらの人物が言うとるのに、お前は何や。バカヤロウ」「バカヤロウとは何ですか。その言葉を取り消しなさい」。で、西本監督は日本シリーズ敗退後に辞任した。この調子なら日本シリーズ勝っていても関係はギクシャクしていたに違いない。監督1年目で大毎を10年ぶりに優勝させた西本監督を去らせた大毎は最悪だなと思う。

この永田雅一からの電話、西本幸雄が自宅で受けた説もある。富永俊治著「三原脩の昭和三十五年」(宝島社文庫)第12章 頂点一気 にはこう紹介されている。「西本君か。負けたのは仕方ないが、スクイズは困るよ、キミ」「なぜでしょう?」「いいかね。オリオンズの売り物はミサイル打線なんだ。それがスクイズじゃ、売り物が泣くとはおもわんかね」。これに対して西本監督はこう反論した。「オーナー、戦術に関することは、監督である私に任せてもらいます」。どうだろう、前述の「魔術師」とはやりとりの意味合いは同じだが、シチュエーションは全然違うし、バカヤロウのくだりもない。野球読書マニアともなるとこういう矛盾もむしろお楽しみになる。で、「三原脩の昭和三十五年」では西本監督はそのやりとりの締めに「それならば、負けたら責任を取らせていただきます」と言っている。

なお、バカヤロウ云々はどうやらあったようだ。ベースボールマガジン社、スポーツ20世紀③プロ野球名勝負伝説「江夏の21球」の向こう側 近鉄の将・西本幸雄はそのときー。(文・横尾弘一)にこんな西本監督の言葉が紹介されている。「永田さんに『バカヤロウ』と言われてクビ。もう監督なんて二度とやるもんかと思ったよ(笑)~以下省略~」。

 

西本監督が素晴らしいのは自分が一番現場を把握していると言い切ったこと、そして結果的には失敗したが自分の作戦が最善だったと思ったことだ。自分が最良と信じて選んだ道ならば、結果は潔く受け止める。この辺りは個人的に足りてないので、西本監督の姿勢は見習いたいなと思う。なお、全くフォーカスされていないが西本監督は第4戦でも勝負どころでスクイズを敢行。またもや失敗に終わっている。そしてその19年後の日本シリーズでまたもやスクイズを企て失敗……。ベースボールマガジン社、スポーツ伝説17 プロ野球日本シリーズ伝説 『江夏の21球』の裏側で繰り広げられた“監督たちの21球”球史に残る名場面をベンチで見守った二人の指揮官は、何を思い、どう動いたか(文・松下茂典)には、石渡茂に命じたスクイズが今も正しいと思うか問われた西本監督の言葉が紹介されている。「もしも、もしもよ。近鉄球団がかつての永田雅一さんみたいな格好でやね、『あんな手はないだろう』と言ったら、『いや、おれはこの方法が一番確率が高いと思った』という言葉を即座に返しただろうね」。即座に。カッコいい。そう言い切れるくらいの覚悟があった、ということだろう。日本シリーズ通算32敗。人は西本監督を悲運の名将と呼ぶが、案外ご本人は嫌じゃなかったのかもしれない。

選ばれるために必要な発掘力~後藤正治さんが説くルポの可能性

スポーツ雑誌Numberが創刊40年という。学生時代、たまにしか買えなかったがはずれがない(かなり吟味して買う号を選んだ面もある)、そんな印象だ。先日のサンデースポーツでNumber40年の歩みを振り返っていた。ゲストに私の大好きな後藤正治さんが出ていた。「結果だけなら情報がすぐ得られる。その状況で雑誌のルポルタージュの役割は?」と大越キャスターは質問した。後藤正治さんは「発掘力」という言葉を提示した。

 

「結果だけでなく、なぜそういう結果が生まれたのかという、なぜなんだ?と疑問、問題意識を持つ読者は結構多いと思う。その層に応えていくものが雑誌かなと」
「いわば一つの物語を提示する、新しい解釈、解析を提示するというか。そういう発掘力が求められているのかなと思う」

Numberの部数はピーク時、47万部だったそうだがいまは12万部(これでもすごいと思うが)。わが新聞業界も雑誌の心配をしている場合ではなく、ものすごいスピードで部数を減らしている。無料で読める媒体が増えたのもあるが、有料でも読みたくなるコンテンツを提示できていない側面はあると素直に思う。速報ではネットにかなわない。とかくネットの情報は玉石混淆とかいうけれど、いやいや、ネットの情報だってクオリティーの高いものはいっぱいあるし、紙媒体でも努力不足が露呈している作品はある。選ばれる作品にならねば淘汰されるに決まっている。みんな「忙しい」のだから。このブログは商業的ではなく、スポーツ好き、特に野球ファンに最高の暇つぶしをしていただきたいと、そんな思いで書いてきた。筆者の自己満足に毎回お付き合いいただき恐縮なのだが、後藤正治さんの言われた「なぜ」に応える「発掘力」は意識して取り組みたいなとあらためて考えている。

優しい人が怒ると恐ろしい~関根潤三は門限破りの衣笠をどう諭したのか

前回、関根潤三さんのことを書いたが実はもう一つ書きたいエピソードがあった。いかにも優しそうな関根さんぽい逸話で大好きなので、関根さんを偲ぶこのタイミングで書いておきたい。出典は近藤唯之著「プロ野球新サムライ列伝」(PHP文庫)ナマイキざかりに出会った人生の師 衣笠祥雄(212~219ページ)。そう、衣笠にとってのこの師こそ関根潤三さんだった。

事件が起きたのは衣笠プロ6年目の昭和45年夏。衣笠は売り出し中の若手だった。雨でゲームが流れたその晩、衣笠は夜の街に繰り出した。それ自体は問題なかろうが、門限11時をはるかに越える深夜2時近くに合宿所に戻ってきた。そーっと部屋に入ろうとしたところに「祥雄、待ってたよ。さあ素振りをしようか」。関根さんが現れた。階段に座って待っていたらしい。

いきなり声を掛けられること自体びっくりするが、しかも関根潤三、しかもこの内容である。当時の関根さんはヘッドコーチ格で、投手、打者両方を担当していたという。ヘッドコーチなら門限破りに対し怒鳴っても何ら不思議はない。むしろガツンと言ったり、戒めるだろう。だが関根さんは「さあ素振りをしようか」である。考えてみてほしい。当然怒られる場面で「祥雄、待ってたよ。さあ素振りをしようか」である。衣笠は血の気が引いたに違いない。

「我が道」衣笠祥雄

「我が道」衣笠祥雄

  • 発売日: 2018/04/27
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
 

 

関根さんは寝間着のゆかた姿、衣笠は上半身裸で200スイング。技術的な指導しかされなかったが、酒が抜けてきた衣笠には、関根さんが鬼のように見えたという。確かに、いかにもというテイで怒る人だけが鬼ではない。本当に大切なことをじんわり諭す。しかも自覚を促しながら。鬼は高等なテクニックを持っているのだ。

アラフォーともなると、怒られる衣笠の心境というよりは指導する側の関根さんの気持ちが近くなってくる。関根さんはどんな気持ちで衣笠の帰りを待っていたのだろうか。酔って帰ってきた衣笠に「待ってたよ。さあ素振りをしようか」と言った瞬間は最高に気持ちよかったかもしれない。うわ、オレ言ったったわ~、キタ━(゚∀゚)━!みたいな。ただし効果的にやるためには普段から人間性を磨いておかないといけないだろう。日頃優しく温和だからこそそのギャップでビビらす。やっぱりあの怒り方、諭し方は関根潤三の真骨頂だったよなとあらためて思った。


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