黒柴スポーツ新聞

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心の隙間は誰にもある~北原遼三郎「完全試合」黒い霧事件・田中勉の章を読んで

ここのところ黒い霧事件に関わった元プロ野球選手について書いてきた。前回は池永正明が出てくる高山文彦「怪物の終わらない夜」(単行本「運命」に収録)を取り上げた。その中で混乱してしまった。池永に八百長依頼の現金を渡した元西鉄投手の田中勉の処分について、「怪物の終わらない夜」では厳重戒告処分と書いてあるが、Wikipediaの「黒い霧事件」では「なし(事実上の永久追放)」と書いてある。田中勉は前年の1969年をもって、当時所属していた中日を自由契約になっていたからだ。このため1970年の関係者処分では田中勉は対象にならなかった、と北原遼三郎「完全試合」(東京書籍)にも書いてあった。私は知っていた。田中勉完全試合達成者だった。日本で15人しかいない大記録達成者の一人、田中勉はなぜ池永正明に現金を渡しにいってしまったのか。「完全試合」を読み返してみた。

完全試合―15人の試合と人生

完全試合―15人の試合と人生

 

 

田中勉は1966年、南海戦で完全試合を記録した。三池工業高校からノンプロの東洋高圧大牟田に進み、都市対抗野球で活躍。1961年、西鉄ライオンズに入団した。以後7年間で84勝。1963年は17勝8敗で最高勝率に輝き西鉄5度目の優勝に貢献。完全試合を成し遂げたのは入団6年目のことだった(「完全試合」では入団5年目と書いてあるが誤りと思われる)。この1966年は23勝12敗。「完全試合」にも書いてあるが、「この年が、結果的に彼の野球人生の絶頂期だった」。Wikipedia田中勉の年度別勝利を見てみたが9シーズン中で6年連続6度の二桁勝利。当時は20勝くらいしないと評価されなかったかもしれないが、チームに貢献していたと思う。

そんな思いもあっただろうか。田中勉は肘や膝を傷めたり腰痛が再発したりと苦しんでしまう。球が走らないから打たれる。肘が痛むと練習を休む。コーチには怠けていると見なされてしまった。球団からは22%のダウン提示を受けた。田中勉の不満は爆発。トレードを希望したところ、広野功との交換で中日入りした。中日初年度の1968年には11勝だから、まだまだ田中は結果を残せた。しかし翌1969年シーズン前半で8勝を挙げオールスター戦に選ばれるも、肩の痛みに苦しんでしまう。オールスター戦も辞退した。ギャンブルに手を出したのは中日移籍後からだった。オートレースにはまってしまった。「たまたまやり始めた」そうだが負けがこんでしまった。古里の九州を離れた心の隙間をギャンブルが埋めてくれたのだろうか。だとしても心を癒すことにはならなかった。むしろ傷口は広がってしまった。そして有能な後輩の池永正明をも巻き込んでしまった。「完全試合」を読むと、魔の手は池永正明を狙っていたようだ。田中勉は借金の棒引きをにおわされ、池永へのメッセンジャーになってしまった。

 

田中勉完全試合達成の試合、9回に自らのタイムリーでチームに追加点をもたらした。打ったのは南海の名投手・杉浦忠から。野村克也に対しても広瀬叔功に対してもブルームに対しても、田中勉は速球で立ち向かい完全試合を成し遂げた。
西鉄ベンチから『ウォー』という鬨の声が上がった。この瞬間、西鉄ナインが一斉にベンチを飛び出していった」(「完全試合」より)
仲間に祝福された田中勉。この3年後の1969年をもって球界を去り、1970年には池永正明永久失格処分にさせ、自らが西鉄ライオンズ崩壊の一端になろうとは想像もしなかっただろう。田中勉にしてみればまさかそこまでになるとは思わずに池永のもとに向かったのだろうが……。田中自身は八百長を3回頼まれ、八百長に失敗するとその「損失」を返せと要求された。関係を絶ち切ろうと家まで売ったが悪魔に蝕まれてしまっていたのだろう。もしも強気のピッチング同様、勇気をもって最初から断っていたなら……と今更ながら思う。と同時に心の隙間は誰にもあるわけで、絶好調の時期から一転、不遇の時期になった時こそ気を付けたいものだ。移籍や人間関係。黒い霧事件に巻き込まれた人々は数奇な運命によってつながっている。黒い霧事件に限らず事件とはそんなものだろうか。巻き込まれないためにはどうしたらよいのか。時代が令和に変わっても、黒い霧事件から学ぶべき点はある。

 

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