1982年大沢日本ハムの奇襲先発男・工藤幹夫さん死去であらためて考える予告先発制度の功罪
普段は朝起きてすぐ黒柴社長と散歩に行くのが日課だ。が、週末ということもあり寝床でスポーツニュースをチェックした。まさかの訃報に目が釘付けになった。元日本ハム投手の工藤幹夫さんが亡くなっていた。現役時代の活躍はリアルタイムでは知らないのに大好きなエピソードの主人公が旅立ってしまった。心からご冥福をお祈りします。(以下敬称略)
さらっとネットで見ただけだが、日刊スポーツ、デイリー、サンスポ、NHK、朝日と主なメディアは訃報を取り上げている。通算30勝の投手にしては扱いが丁寧と思われるだろうがもちろん黒柴スポーツ新聞では号外級の出来事だ。工藤幹夫の死が速報される理由、それは1982年パリーグプレーオフにて、一世一代の奇襲先発を行ったからである。さすがサンスポ。「世紀の奇襲先発」という素晴らしい見出しだ。上記日刊スポーツの「日本ハム最後の20勝投手」も悪くはないが大谷翔平あたりが投手一本でやるなりすれば20勝は夢ではない。最後の、というのはいかがなものか。もちろん工藤幹夫が20勝したことについては素晴らしいので後ほど触れる。
黒柴スポーツ新聞編集局長はこの世紀の奇襲をリアルタイムで見ていないので、今回の教科書はベースボールマガジン社「発掘!『プロ野球名勝負』激闘編」とする。アマゾンで見たら本そのものの値段は中古で1円だった。工藤幹夫の記事だけでも送料手数料以上の値打ちがあるのだから買いですぞ。工藤幹夫の奇襲については「激闘!プレーオフ~1973-1982パ・リーグ」の2本目の記事として66ページから69ページの計4ページ、力投する工藤幹夫の大きな写真付きで紹介されている。当時の日本ハムユニフォームはオレンジの割合が多い時代。帽子も白い部分のないオレンジ一色なので懐かしいユニフォームマニアとしてもたまらない。
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工藤幹夫が登板したパのプレーオフは1982年でいったん終了している。よって最後のシーズンにとんでもない話題が提供されたことになる。前期優勝した西武と争うプレーオフ(10月9日開幕)の1カ月前、9月8日に工藤幹夫は右手小指の付け根を骨折した。全治4週間。当時の球団発表によると「自室で柔軟体操をやっていたところ、右手をドアにぶつけた」とのこと。ちなみにベースボールマガジン社「憧れの記憶 投手編ー連続写真で見るスーパースター」65ページでは工藤幹夫の投球フォームと共にけがのくだりも解説されているが、「打球の処理を誤って」とある。本紙はこういううやむやなエピソードを見るとコアなプロ野球ファンの一人としてよだれが出てしまう。
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工藤幹夫はこの1982年、20勝4敗で最多勝と勝率1位に輝く。プレーオフ初戦は勝ち星を狙う意味でもチームの士気を高める意味でもエースを立てるのが常道。だが工藤幹夫は小指を骨折してしまった。相手の西武を6勝1敗と得意にしている人なのにだ。大沢啓二監督は困ってしまったがそこは大沢親分。工藤幹夫の体調が予想以上に回復していたこともあったが自称ファイターズの営業マンとしての血が騒いだ。ざっくり言えば「プロたるもの話題も提供せねばならん」。ファンも西武もさらには自軍の選手もだましてしまえと工藤幹夫の奇襲登板を計画した。
遠征にはギプス姿の工藤を同行させた。プレーオフ前日の室内練習場でもギプスをはめたまま。当日の球場入りも小指に包帯を巻いていた。なのに試合開始30分前に「日本ハムの先発、工藤」のアナウンスが流れた。試合前のメンバー表交換で広岡達朗監督が何とも言えない表情だったと大沢親分は後に振り返っている。もともとの相性の悪さか、奇襲作戦にうろたえたか、西武打線は沈黙した。工藤幹夫は6回無失点のナイスピッチング。奇襲は大成功に思えたのだが誤算は日本ハム打線が高橋直樹ー永射保ー東尾修のリレーに封じられたこと。0-0のまま終盤にもつれ込み、工藤幹夫からマウンドを引き継いだ江夏豊が西武のプッシュバント攻撃にあい、ハムは8回一挙6失点。0-6で敗れた。
ここで奇襲作戦は失敗に終わったかに見えたが第2章があった。第3戦にも工藤幹夫が先発。今度は9回完投で勝ってしまった。結局プレーオフはこの勝ちのみで西武に軍配が上がった。だが当時のプロ野球ファンのハートをわしづかみにした大沢親分の営業マン魂と、それに懸命に応えた工藤の雄姿はいつまでも語り継がれることだろう。だからこそ工藤幹夫の訃報は速報されたのだ。
工藤幹夫は1984年に肩を痛め、内野手にもなったが1988年限りで引退。通算30勝22敗、防御率3.74。巨人との1981年日本シリーズでは6試合中5試合に登板し2勝を挙げた。ともかく82年の20勝4敗(勝率8割3分3厘)というのがすごい。途中で14連勝もしている。別に奇襲作戦でなくてもそのシーズンの勝負がかかった試合で投げてもらいたくなるピッチャーだったのだろう。残念ながら奇襲は実らなかったし、工藤幹夫が若くして亡くなったことも残念だがきっと大沢親分はこう言ってくれているはずだ。「工藤よ、奇襲先発しといてよかっただろ。訃報を取り上げてもらってんだから」。
あらためて考えれば球場に行って先発が誰か分かった時のあの何とも言えないかんじはよかったなあ。確かに予告先発なら名前を見て球場行こうかという人もいる。営業的にはいいのだろう。選手や首脳陣も翌日を見据えて準備ができて試合がより締まるかもしれない。だがだまし合いも勝負のうち。相手先発を予想してオーダーを組むのも監督の腕の一つではなかろうか。工藤幹夫の奇襲先発は予告先発制度がなかったゆえにできた、ファンへのサプライズプレゼントでもあったのだ。
というわけであらためて提案したい。レギュラーシーズンは営業的に効果があるであろう予告先発を継続してもいい。しかし黙っていてもお客さんが入るプレーオフと日本シリーズは球場発表にしてもらいたい。小学生からお年寄りまで「きょうは誰と誰が先発かな」とかシリーズなら4戦までの先発予想をしてしまうなどあちこちで話題になると思うのだが。谷繁元信監督あたりなら何かしら仕掛けかねない。復刻ユニフォームやキャッチフレーズ、ファンサービスで話題になるのも結構なのだが本当のファンサービスはプレーで、試合本番で提供してもらいたい。あの日の工藤幹夫のように。
きょうの1枚は何としても工藤幹夫をと思ったが、工藤のカードは持っていない。いや、そんなはずはないと思ったが…。実は見たことあると思っていた写真は1982年9月28日の後期リーグ優勝のカード裏に使われていた写真だった。きょうは参考図書にある写真とのコラボでお届けする。右上の写真がベースボールマガジン社「発掘!『プロ野球名勝負』激闘編」、左がベースボールマガジン社のさきほどのプロ野球カード、下がベースボールマガジン社「憧れの記憶 投手編ー連続写真で見るスーパースター」のものです。日本ハムファンでもないのにカードや参考図書を探しまくって、きょうは1日工藤幹夫デーでしたが、工藤幹夫を追悼している昔からの日本ハムファンへのささやかなプレゼントになれば幸いです。