己の限界を知る~川上哲治と石井琢朗に見る成功例
曲がりなりにもプロ野球の世界に入るのだから、投げることも打つことも人より秀でている。そのフォームも自分なりのスタイルを持っている人ばかりだろう。例えば野茂英雄。よくぞフォームをいじられなかったものだ。少年時代に遊びで真似をしてみたものの、やわな足腰では無理があり暴投連発。あのスピードとフォークを制御できるのだから野茂のフォームは彼なりに理にかなっているのだろう。
本人的には一大事
しかし、プロ入りしてから投手が打者に転向する例が稀にある。それは投手として見切られたり、あるいは己の限界を悟ったりしたからだろう。プロ入りまでに積み上げてきた実績や自信を捨てることも意味するので、本人なりに大きな決断に違いない。それでも転向が吉となり、球史に名を残した人もいる。
転向して打撃の神様に
例えば川上哲治。もともと熊本工時代はピッチャーだった。巨人入り後、投打両方やったが結局野手に専念。19歳で早くも首位打者に輝いた。その後プロ野球史上初の2000安打達成。打撃の神様と称された。川上哲治の場合はチーム事情や監督の意向で転向を促されたようだが、本人もまんざらではなかったとか。投手としては4年間で11勝9敗の成績を残している。
※2006年版ベースボールマガジンのカードを使わせていただきました。綱島理友さんの彩色がそそります。
わずか1勝でも1勝
そして川上哲治に次いで、投手として勝利を記録した上で2000安打を記録したのが石井琢朗。初先発初勝利と上々のデビューだったがプロ入り後3年間での勝利はそれが唯一(4敗)。須藤豊監督に野手転向を申し出たという。もともとセンスがあったのだろうが相当努力もしたことだろう。転向初年度から10年、毎年ヒット数を伸ばし続けた。首位打者こそとれなかったものの、1998年と2001年には最多安打。98年は所属した横浜ベイスターズが優勝した年だから、石井琢朗の貢献は大。打者転向はチームにとっても吉だった。
※1993年版IDカードを使わせていただきました。編集局長はIDカードをほとんど持っていません。このカード発行時点の石井琢朗の通算安打数はわずか62本。名球会入りを予想した人はいたでしょうか?
自分を認められない弱さ
石井琢朗も川上哲治も転向は3、4年での決断。この道では無理だと思い、別の道を選ぶのであれば早いに越したことはないのかもしれない。黒柴スポーツ新聞編集局長の場合、悪い癖がある。車の運転では道に迷ったとしても「戻る」のが嫌いなのである。本当は潔くUターンした方がいいに決まっている。ロスは少ない方がいい。分かってはいるのだが道に迷ったことを素直に認められないのだ。レベルの低い例えになってしまったが実はこの辺が肝かもしれない。石井琢朗も川上哲治も素直に当時の自分が見られたからこそ、その後成功した。本紙はそう見ている。
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広島アスリートマガジンで引退特集
追加になるが石井琢朗がいいなと思うのはさらに広島で粘ったこと。本人は粘ったつもりもないだろうがカープのユニフォーム姿もかっこよかった。広島で発行された「広島アスリートマガジン」2012年11月号では引退特集が組まれ、ついカープファンでもないのに通販で買ってしまった。個人的には24-25、26-27ページと2パターン計4ページはデザインがかっこいいなと。どんなにかっこいいかは見てのお楽しみ。おしゃれなレイアウトです。
冷静に自分が見られるか
別にみんながみんな転向する必要もない。限界を設定しない生き方もあるし、限界に挑戦する生き方もある。冒頭の野茂英雄のように信じた道を突き進む生き方も大好きだ。ただいずれの場合も冷静に自分の現状を見られるかがポイントを握りそうだ。