移籍の度にサラリーを上げ続け7球団を渡り歩いた後藤修氏
終身雇用制が崩壊した、とも言われているが一企業に就職しそのまま定年を迎える人はどれくらいいるのだろうか。職業自体を変えることを転職というのだろうが、日本では就職先を変えることも転職という。ステップアップ、現状からの脱出、ヘッドハンティングなど細分化もできるがプロ野球界の移籍制度とも重なって見える。
※2003年版ベースボールマガジンの野球カードを使わせていただきました。写真は野村収。大洋ーロッテー日本ハムー大洋ー阪神。二度目の大洋時代は17勝で最多勝とカムバック賞に輝いた。
プロ野球記録大鑑を参考に
後藤修さんという元選手をご存じだろうか。ピッチャーだったが、記録の神様・宇佐美徹也さんの大作「プロ野球記録大鑑」(定価9800円!)から所属球団を拾ってみる。
1952年度=松竹
1953、54年度=洋松
1955年度=東映
1956年度=大映
1957、58年度=巨人
1959、60年度=近鉄
1961、62年度=南海
1963年度=西鉄
最初の松竹と洋松は同一チームのため、12年間で7チームに所属した。
肩書きはジプシー
移動民族になぞらえ「ジプシー」とも言われた(不快用語とされていますが事実として紹介しました)。宇佐美氏の著書には野球評論家になった後藤さんの名刺にもジプシーと書いてあった、とある。実力で渡り歩いたのだから、苦労したというよりもむしろ誇りに思っているのかもしれない。興味を持たれた方はぜひネット検索をしてほしい。
ジャンボの先生
誇りに思えるのには理由がある。戦力外になり移籍するごとに給料が上がっていったのだ。これならば下を向く理由がない。まさに転職王だ。なおプロ野球に見切りをつけた後藤さんはゴルフ界へ。プロを教えるプロコーチとなり、あの中島常幸や尾崎将司を指導した。こちらの方が本来の意味の転職。才能で道を切り開いている。尾崎自身も元は西鉄の選手。投手としての芽が出ず、打者としてもわずか2安打だった。それが後にゴルフ界に君臨するのだから、人生は分からない。すさまじい師弟コンビだ。一つの企業で全うしようが、会社を変わろうが、新しい世界に飛び込もうが、大事なのは本人が輝けることに決まっている。
大リーグには10チーム所属の選手がいた
大リーグではレッドソックスなど10チームにいたディック・リトルフィールド投手、カージナルスなど10チームにいたボブ・ミラー投手がいる(宇佐美氏の著書より)。大リーグはいろんな意味でスケールが大きい。
※2003年版の野球カードを使わせていただきました。写真は渡辺秀武。巨人ー日拓・日本ハムー大洋ーロッテー広島。巨人時代にノーヒットノーラン。8年目に23勝。通算144与死球で引退試合に新記録目当てに吉竹春樹に当てたにもかかわらず後に東尾修に抜かれる(165与死球)。
球団は手を尽くして
トレードというと「出される」イメージがあるが、補完という意味合いもある。近年、ドラフトで指名しておきながら数年で戦力外になるケースがある。選手の一生が懸かっているので球団にもトレードなど最後の最後まで手を尽くしてもらいたい。そうでなくとも選手のセカンドキャリアは長年の課題。引退後、全員が球界に残れるわけではない。清原の一件で、元選手が「証言者」として出てきたがなかなかの見た目だった。極端な例かもしれないが、プロ野球ファンとしてはたとえ球界から離れたとしても元選手としてのキャリアは胸に秘めておいてもらいたい。
人生が懸かっている
ドラフトで1球団が6人ずつ取るとして6×12=72人。ベテランはそうやすやすとその座を明け渡さないだろうが、毎年毎年ライバルは入ってくるのだ。それを蹴落とした人らだけが生き残っていくのがプロ野球。10年レギュラーを張るだけでもすごいことなのだ。1本のヒット、ホームランが栄光に結びつくこともあるが1球、1個のエラーで人生が狂うこともあるすさまじい世界。お客さんはそれをお金を払って見に行っている。
本紙は白根に注目
後藤氏は転職して新たな人生が開けたが、この世界にこだわってもがいている若者もいる。例えば元ソフトバンクの白根尚貴。島根・開星高校からドラフト4位で入団したが1軍の戦力にはなれなかった。2016年も育成契約が結べたがそれを固辞しトライアウトを受験し、横浜入りした。白根の「転職」は成功するのか。ぜひ高校の先輩・梶谷隆幸と大暴れして、この世界に一歩でも足跡を残してもらいたい。