黒柴スポーツ新聞

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惜別・大島康徳さん〜一発長打の男、代打から通算2204安打、そして監督へ

中日と日本ハムで活躍した大島康徳さんが6月30日に亡くなった。70歳、まだまだ野球界への貢献をしてもらいたかった。今日は生前の勇姿を野球カードで振り返ってみたい(以下敬称略)。


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大島は大分の中津工出身。中学生の時はバレーボール選手だったらしい。中日には投手として入るがすぐ野手に転向。もし投手として1勝していたら、石井琢朗より先に、投手として勝利経験のある2000安打達成者だった(ほかに川上哲治も)。

 

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大島は代打で頭角を現す。1976年には代打で1シーズン7本塁打。これはプロ野球記録である。背番号は40だったが後に5となった。


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タイトルは1983年に36本で本塁打王に輝いた(山本浩二と分け合う)。ちなみにホームランは通算382本まで伸ばす。「燃えよドラゴンズ」の歌詞には「一発長打の大島君」というフレーズがある。382本という数字、地味にすごい。ソフトバンク柳田悠岐でもまだ200本なのだ。

 

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大島は1988年に日本ハムにトレードで移籍した。チームの若返りという切なすぎる理由らしいが、移籍先できっちり試合に出続けた大島は本当に偉いなと思う。この踏ん張りがあったからこその通算2204安打かとも思う。ちなみに筆者は公式戦かオープン戦かあやふやだが、大島の二塁打三塁打を東京ドームで見た。1991年、もしくは92年の日本ハムの野球カードが入手できていれば、オレンジ基調の大島が見られたはず。残念ながら持っていなかった。

 

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特筆すべきなのは大島が移籍先の監督に請われたことだ。途中から入団した人が監督になるのは相当信頼されているように見える。途中からの加入は落ち着かないものだ。そこ独特の価値観やらしきたりがあり、そのハードルの高さは生え抜きには分かるまい。それでも大島は監督になった。代打からレギュラーになり、タイトルもとったスター選手がチームを移れと言われた。移籍先で埋没するパターンもある。大島は埋没どころかそのまま試合に出続けて名球会入りして監督まで務めた。

 

トレードの際、日本ハムが必要とするから呼ばれると言ったのは名言だと思う。また、中日が本当に必要と思うなら出さないはずだとも言ったという。どちらも真実である。ただ、若返り方針イコール出場機会が減る流れを考えると、大島は試合に出て結果を残せたという意味ではやはり、移籍して運が開けたのではなかろうか。監督時代の5枚目のカード写真は大島の笑顔が印象的である。これを見ても大島の野球人生は幸せだったことが伝わってくる。謹んでご冥福をお祈りします。


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