黒柴スポーツ新聞

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出会いをいかに生かすか~取手二高の名将木内監督とエース石田そしてリリーフ柏葉

人生に一度だけ、ワンポイントリリーフを頼めたら……そんなことを考えた。本棚で「永遠の一球: 甲子園優勝投手のその後」 (河出文庫)を見つけた。石田文樹。取手二高で全国制覇したピッチャーの物語を読んだ。名将・木内幸男監督が亡くなった後であるだけに、今読む価値があるように感じた。

高校野球ファンなら基本のキだろうが年齢的なものもあり、私は取手二高の記憶がリアルタイムでは、ない。記録映像が頼りで、石田文樹は太めの眉で平たい顔という印象だ。そして確かプロ野球にも入ったとうっすら記憶していた。が、その程度だったから、この本の石田の章を先入観なく楽しめた。取手二高の快進撃を、試合進行を詳しく交えながら知りたい方はYouTubeとの併用をおすすめする。1984夏の甲子園取手二高が優勝するのだが、初戦(2回戦)は強豪の箕島高校。雨でぬかるんだグラウンドも味方して、取手二高は逆転勝ちする。3回戦は福岡大大濠、準々決勝は鹿児島商工、準決勝は鎮西。そして決勝はPL学園との対決となった。

石田は肩を傷めていたため、その穴を埋めたのは二番手の柏葉だった。映像で見るとソフトバンクの嘉弥真をさらにアンダースローにしたような、いわゆる変則投法のピッチャーだったが、この柏葉の存在が石田を、そして取手二高を支えることになる。

木内マジックには二つの意味があり、一つは人心掌握。もう一つが大胆な作戦である。人心掌握は、やんちゃぞろいの個性派軍団の取手二高野球部をまとめたことが知られている。木内監督は部員に自覚を求めるため1週間休みを与えるも、「レギュラーに休みを与えたが、補欠が休んでいいとは言っていない」として、補欠に退部を求めてしまった。これに部員は猛反発。練習のボイコットに発展したが、吉田剛主将(のち近鉄阪神YouTubeで見ると顔が元中日井端にクリソツ)は「補欠のことを監督に認めてもらおう」と提案して反発は沈静化。団結力が高まり甲子園での快進撃へとつながっていく。もう一つのマジックは作戦面で、決勝の9回裏に同点ホームランを喫し、さらに後続に死球を与えた石田をライトに下げ、柏葉をマウンドへ。1アウトを取ると再び石田をマウンドに上げた。「永遠の一球: 甲子園優勝投手のその後」でも、別の映像でも、石田の降板時と再登板時の顔つきが見違えるように好転したと紹介されていた。

石田文樹が死球を与えた次の打者は左打者。そこに変則左腕の柏葉を当てられるところが取手二高の強さなのだろうが、変に「エースと心中だ」などと覚悟を決めるのではなく、一打逆転負けの場面でエースを降板させてワンポイントリリーフをした上で、再び石田文樹の闘志に懸ける。この「信じる心」が延長での勝ち越し劇につながったのだと思う。そして石田のガッツはもちろん称賛されることなのだが、しびれる場面で、送りバントとはいえきっちり1アウトを取った柏葉(と素早く二塁に投げて走者を封殺したキャッチャー中島も)は素晴らしい。本当に苦しい時に助けてくれる仲間がそばにいるかどうか。人生の分かれ道だと思う。

柏葉というワンポイントリリーフを得た石田文樹は甲子園優勝投手となった。だが、伸び伸び野球で才能を開花させた石田も伝統の早稲田大学野球部ではなじめなかったのか、1年もたずに退部となった。理由は詳しく語られていない。その後入れた日本石油ではよき先輩に恵まれて持ち直しプロ入りを果たすが、ドラフト5位で入った大洋では25試合の登板に終わった。通算1勝。現役生活6年よりずっと長い14年、打撃投手を務めた。しかし、ガンに冒され、41歳で旅立ってしまった。治療の際にも復帰を見据えて右肩への処置を回避したくだりには、石田の投手としての気概を感じた。さすがにガンに対するワンポイントリリーフは願えるわけもなく、石田は天に召されてしまった。

取手二高を卒業後、石田と木内監督がどのような関係だったかは知らない。もう天国で二人は出会っただろうか。YouTubeで流れていた木内監督のコメントでは、甲子園で優勝したことをひけらかさないような生き方を選手に求めていた。石田に優勝投手としての変なプライドがあったら打撃投手は引き受けなかったようにも思う。公立高校・取手二高の快進撃を支えたエースと名将。そして陰で支えたワンポイントリリーフの柏葉。人生はいかに出会いに左右されるかを、あらためて感じた。


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