甲子園のない夏に山際淳司「八月のカクテル光線」を読んで
甲子園のない夏である。それもずいぶん前に決まっていて、予定通りであるため騒ぎにもなっていない。ただぽっかりと、高校野球のファンの日常に穴をあけている。私はとりあえず、山際淳司氏の文庫本「スローカーブを、もう一球」から「八月のカクテル光線」を選んで読んだ。あの延長18回までもつれた、星稜対箕島の名勝負(1979=昭和54年)を描いた作品だ。
この作品には二つの落球が出てくる。有名なのは星稜の一塁手、加藤直樹が落としたファウルフライ。だが本人も作中で述べている通り、グラブに当てて落としたわけではない。加藤は転倒してしまい、捕れなかったのだ。そういうシーンは野球ではあることなのだが、加藤が有名になってしまったのはそれが勝利まであと1アウトの延長16回裏2死で起きた出来事だったからだ。しかし加藤は「しこりは残っていない」とも言っていた。周りからは冗談めかして「お前の作戦通りや」なんて言われたりもしたけれど、陰でこそこそ言われるよりはずっといいのだ、と。それでも加藤は「スッキリできない部分がある」という。一生ついてまわる、フライを捕れなかった、優勝を逃したという事実。それが甲子園や高校野球のリアリティーであり、だからこそ観る人の心を打つのだと思う。やり直したくてもやり直すことはできない。再生不可能な状況だからこそ、人々は固唾を飲んでその一瞬一瞬を胸に刻もうと必至になっているのだ。
この名勝負の主審を務めたのは永野元玄さん。土佐高校準優勝時(1953=昭和28年)のキャッチャーで、甲子園の時季には会社を休んで審判をしていた。先ほど、「八月のカクテル光線」には二つの落球が出てくると書いたが、永野さんも優勝目前で落球をしていた。松山商業との決勝、9回に追い付かれてしまったのだが、その直前だった。もしチップした3ストライク目を永野さんが捕球していたら土佐高校は優勝だった。しかしおさまりかけたボールを永野さんは落としてしまった。その後同点打を浴び、延長13回に逆転されてしまった。星稜の加藤も「落球」後に同点ホームランが生まれているため、状況がよく似ていた。そしてご存じの方もいらっしゃる話だが、試合後に永野さんは、負けた側の星稜の堅田投手に、試合で使ったボールを渡す。こうしたエピソードの数々もまた甲子園ファン、高校野球ファンの心を温める。
8月10日からはセンバツの代替大会がある。1試合限定の特別なゲーム。これもまた胸を熱くするに違いない。一瞬、一瞬を大切にテレビ観戦しよう。
山際淳司氏の「スローカーブを、もう一球」に収録されている「八月のカクテル光線」もぜひお楽しみください。