黒柴スポーツ新聞

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やりたいことができなくなったら~第1回ドラフト1位→打撃投手・豊永隆盛(中日)

中日の名選手、西沢道夫について調べようと1978年のベースボールマガジン5月号を開いた。その中の一つの記事に目が止まった。「プレーボール前のエースたち」。中日ドラゴンズの豊永敬章(改名前・豊永隆盛)ら打撃投手を取り上げたものだった。目に止まった理由は豊永が第1回ドラフト会議(1965年)の中日1位指名だったこと。そして記事の中にあった「これも野球人生でしょうね」「これがボクの仕事だから」にグッときたからだ。

豊永のノルマは「試合前に30分から1時間近く」と書いてあった。「本拠地はもとより、ロードにも全部チームと行動をともにする」ともあり、スコアラーの仕事もしていた。スコアラー兼バッティング投手。球団職員なのだった。豊永は熊本県の八代第一高校出身。Wikipediaを見て驚いたのだが高校では130試合で120勝8敗2引き分けだった。甲子園には行ってないようなのでその8敗が致命的だったとも思うのだが……ともかく豊永は記念すべき第1回ドラフト会議で中日に指名されたのだった。右投げの本格派投手。ベースボールマガジンには1年目の松山キャンプで豊永のピッチングを初めて見た西沢道夫監督のコメントが紹介されている。「ウーン、いいフォームをしてるな。これで体が完調になれば、きっと凄いスピードボールを投げるはずだ」

その豊永はどんな成績を残したのか。プロ野球記録大鑑には豊永隆盛の名前で載っていた。実働1シーズン。通算登板1、1回と3分の1を投げ、被安打3、四球1。2失点で防御率は18.00だった。右ひじに欠陥があったという。傷めたのは入団の前なのか、後なのか。西沢監督が「体が完調になれば」と言っていたので入団した時にはすでに傷めていたのかもしれない。豊永は以後登板することなく、5年目ごろから毎日1軍の打撃練習で投げ続けた。1973年限りで選手登録を外れ、74年から専門の打撃投手となった。

もう一つ、Wikipediaを見て驚いた。豊永の中日退団は2008年。もしこの間に退団していなければ、42年も在籍していたことになる。プロで1勝もできなかった男が実力主義プロ野球の世界で……すごいなと思う。その背景には彼の人となりがあったのではないか。ベースボールマガジンの豊永の記事はこう始まっている。

「中日の選手や関係者は、豊永の怒った顔をまだ一度も見たことがない。このチームの一員となってから、もう13年目にもなるというのに……」

そんな豊永とて、もちろん1軍のマウンドでバリバリ投げたかったと言っている。しかしそれができない現実。ドラフト1位という高評価を、けがとはいえ裏切った。それに苦しんだこともあっただろう。それでも豊永は第2のマウンドを見つけ、そこに立ち続けた。それを支えたのは制球力だった。やはり自分を助けられるのは自分しかいないのだ。

豊永はスコアラー兼バッティング投手の仕事を「少しもつらくはありません」と話していたが、どうやって折り合いを付けたのか、付けられてはいなかったのか。記事の結びは秀逸だった。

「昨年から『隆盛』から『敬章』と改名した。30歳を迎えて、自分の人生に一つの区切りをつけて、再出発しようという気持ちがそうさせたのだろう。現在一児のパパ。この彼をサラリーマンと表現していいのだろうか」

誰しもやりたいことをやって生きていけるわけではない。また、華がある世界を見た人はそことのギャップにも苦しむだろう。ドラフト1位だったおれがなぜ打撃投手なのだと思っても不思議ではない。現役の選手たちを羨むかもしれない。それはそれで、無理に消化しなくていいと思う。豊永は折り合いを付けたのかもしれないけれど、やりたいことがあるのならばやり続けたり、やれる方法を模索したらよいと思う。豊永がどんな球団職員人生だったか詳しくは分からないが、どんな思いで球団に残り続けたのか、機会があったらぜひ聞いてみたい。

打撃投手については澤宮優さんの「打撃投手」を読んで勉強させていただいたことがあります。興味がありましたらぜひご覧ください。また、黒柴スポーツ新聞を気に入ってくださった方はぜひフォローをお願いいたします!

打撃投手

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