黒柴スポーツ新聞

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記憶に残る仕事をする~4打席連続本塁打の醍醐猛夫氏死去

元ロッテの醍醐猛夫氏(以下敬称略)が201912月11日、亡くなった。定期講読している新聞では、訃報記事の見出しが「4打席連続本塁打」となっていた。それはそのまま、プロ野球ファンが持っていた醍醐猛夫の記憶だった。私が、見出しを付ける整理記者であってもそうしたに違いない。訃報記事の見出しが故人のすべてを物語る訳ではないのだが、やはり一人の人間が人生で何かを成し遂げる、という意味では、見出しになるようなインパクトのある仕事を残したいものだ。

 

消えた球団 毎日オリオンズ1950~1957

消えた球団 毎日オリオンズ1950~1957

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: ビジネス社
  • 発売日: 2019/06/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

醍醐の4打席連続本塁打は知られている話だが、今回訃報記事で気付いたことがある。醍醐は通算本塁打が81本だったのだ。18年の現役生活。単純計算で年間平均5本以下である。その男が4打席連続で本塁打を放つ。そこにしびれた。醍醐の4打席連続は2日にまたがっての記録だが、その2日に何があったのかが知りたい。広島の鈴木誠也は連日サヨナラホームランを放って緒方監督に「神ってる」と言われたのだが、醍醐もまたこの2日間は神がかっていた。

 

私が好きな本のタイトルで澤宮優さんの「燃焼の瞬間」がある。正確には「プロ野球・燃焼の瞬間―宮田征典・大友工・藤尾茂」。巨人の名選手の足跡、そして燃焼の瞬間を丁寧に綴った作品だ。人にはそれぞれ輝き時がある。早くから頭角を表す人がいれば、大器晩成の人もいる。醍醐の場合は早稲田実業時代に王貞治とバッテリーを組み、夏の甲子園に出場。プロ入り1年目から正捕手になっているから、早くから実績が積めていた。だが18年の現役生活の中では正捕手の座を奪われたこともある。4打席連続本塁打を記録したのは現役終盤と言える1971年。結果的には、まだまだやれるという良いアピールになったのではないか。まさに燃焼の瞬間で、気力体力が充実していたからこそ大記録が作れたのだと思う。

 

プロ野球・燃焼の瞬間―宮田征典・大友工・藤尾茂

プロ野球・燃焼の瞬間―宮田征典・大友工・藤尾茂

 

 

 

燃える男と言えば長嶋茂雄。だがみんながみんな長嶋さんのようにいつもいつも燃えられる訳ではない。むしろ燃えられない日の方が多いだろう。だからこそきょうは行けるぞと、何だか調子がいいぞという時には思いきって行動したいものだ。きょうなら結果が出せるかもしれないという日は貪欲に行動する。醍醐のようにとにかくバットを振ってみることで、ものすごい結果が残せるかもしれない。残念ながらその瞬間はいつやってくるかは分からない。裏返せば、だからこそ常に準備をしておかないといけない。自戒を込めて書いておこう。

 

記憶に残る仕事、と言えば醍醐猛夫は「連勝キラー」としても知られる。稲尾和久を20連勝(1957年)で、杉浦忠を12連勝(1959年)と13連勝(1964年)でストップさせる殊勲打を放っている。稲尾も杉浦も球史に残る大投手。しかも連勝中だ。4打席連続本塁打といい、やはりある程度の実力がなければ勝負強いバッティングはできまい。

 

神様、仏様、稲尾様―私の履歴書 (日経ビジネス人文庫)

神様、仏様、稲尾様―私の履歴書 (日経ビジネス人文庫)

 

 

 

どなたかが紹介していたが醍醐猛夫は選手や指導者として、毎日、大毎、東京、ロッテ「オリオンズ」と千葉ロッテマリーンズのユニホームに袖を通したそうだ。これを知っていた方はなかなかの野球通。また、醍醐猛夫がそれだけ球団に必要とされていたことを物語っている。現役生活の安打数は18年間で1132安打だった。プロ野球記録大鑑の名簿には醍醐猛夫の近くに醍醐俊光の名前があった。猛夫の弟だという。醍醐俊光の成績は実働2年で2打数0安打。兄はオリオンズとマリーンズの長きにわたってチームに関わり、弟はわずか2シーズン。兄弟でプロ野球の厳しさをリアルに教えてくれている。


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