黒柴スポーツ新聞

ニュース編集者が野球を中心に、心に残るシーンやプレーヤーから生きるヒントを探ります。

54年前の甲子園作新優勝メンバーのその後~事故死した加藤斌と完全試合の八木沢荘六

甲子園は作新学院が北海を下して54年ぶりに夏を制した。当日、それを書かずに鬼嶋一司さんがその試合をもって高校野球解説を勇退されることを書いたところGoogleやヤフー検索の上位にわが黒柴スポーツ新聞が現れる珍事が。その威力や凄まじく、通常の5倍のアクセス、もちろん過去最高となった(そして多忙のため数日更新を怠り鬼嶋さん特需もほぼ終息)。これからも独自の視点とタイムリーさを追求していきたい。いつも応援ありがとうございます。


作新学院と北海の試合がいかに素晴らしかったかや作新のエース今井達也投手についてははたくさんの方が書かれただろうから、本紙は加藤斌(たけし)さん(以下敬称略)のことを書く。作新が1962年に夏を制した時のピッチャーだ。

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写真は左上から、ベースボールマガジン社「激動の昭和スポーツ2 プロ野球下 ON全盛 v9巨人→群雄割拠→西武黄金時代」(加藤)、右上が石川泰司著「消えた男たち」(左が中野孝征、右が加藤)、下がベースボールマガジン社「昇竜の軌跡」(加藤のピッチングフォーム)


実は甲子園の偉業よりも前に入団3年目に交通事故死した事実を知って心に残っていた。ウィキペディアによると、1965年の正月、作新学院のクラス会に出て2次会に向かう途中、運転する車が民家の塀に衝突した。意識を取り戻すことなく、20歳の若さでこの世を去った。詳しくはウィキペディア「加藤斌」をご覧ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%96%8C


それにしても人の一生などどこでどうなるか分からない。作新学院時代、実はのちにオリオンズで活躍する八木沢荘六がエースだった。62年選抜を制するも夏の甲子園直前に赤痢にかかってしまい、加藤斌を代役に立てた。加藤斌はこれに応え甲子園で力投。見事優勝投手になった。


プロが加藤斌を放っておくはずがなく、争奪戦が繰り広げられた。上記ウィキペディアでも触れられているが、中日はお見合い大作戦を敢行。加藤斌のお姉さんと土屋弘光コーチをお見合いさせることで縁を作ろうという仰天プランだったが、結果的に入団も婚約も成立した。


この作戦については裏が取れた。中日のトレーナー、マネージャー、広報などを務めた足木敏郎氏の「ドラゴンズ裏方人生57年」に出ていた。


正月の深夜に西沢道夫監督から電話があり加藤斌の死を知る。坪内道則コーチに電話すると、大阪の自宅からすぐ名古屋に向かうから一緒に車で宇都宮に行こうと言われた。夜通し運転して東京で西沢監督と合流し、そこからは監督が運転してくれたという。将来のエース候補だった加藤斌を失った時の心境は悲痛だったことだろう。本には加藤の将来のために河村保彦が20勝目の白星の権利を譲ってくれたエピソードも書かれている。興味がある方はぜひ本をご覧ください。

ドラゴンズ裏方人生57年

ドラゴンズ裏方人生57年


ウィキペディアの参考文献に毎日新聞で運動記者経験がある石川泰司氏の「消えた男たち」を見つけた。第四章「閃光」では作新学院優勝メンバーが続々登場する。八木沢、加藤、天才肌のショートで主将の中野孝征、四番でプロ入り後、行方不明になって無期限失格になった高山忠克。もちろん加藤斌の事故など加藤のことがものすごく詳しく書かれているが、作新ナインのその後にも引き込まれる。中野も高山もプロでは結果を残せなかった。中野は都市対抗野球で敢闘賞に当たる久慈賞に輝いたが燃え尽きた感がありプロ入りは躊躇したという。これがプロで大成しなかった要因と石川氏は見た。

消えた男たち―ドラフト20年

消えた男たち―ドラフト20年


高山は国鉄入団後、阪神に移籍。賭けレートの高いマージャン、競艇といったギャンブルにはまり借金を抱えたことに端を発し、行方をくらまして無期限失格になってしまった。その後いろいろあったが石川氏が取材した時点では長野県伊那市にキャバレーを持っていた。野球に関するものはあえて残さないようにしていたようだが、八木沢と中野からの年賀状は額に入れて保管していた。作新学院の同窓会にも、自分が作新の名前を汚してしまったとの思いから遠ざかっていたが「誰もあなたを責めていないから顔を出したら」と石川氏に勧められた時、「みんながそういってくれるなら、行きますとも」と答えていた。


それにしても石川氏は相手が話しにくいような過去の汚点に、迷いながらも触れに行ってすごい。記者はそういうものなのかもしれないが、本の題のように「消えた」男たちが取材対象なのだから毎回アポ取りが大変だったことだろうと思う。高山は同窓会に行こうかなという返事の後に「石川さんも一緒にどうですか」と加えている。難しい取材が成立するのだから石川氏の人柄や取材対象との距離感はきっちりしているのだろう。


八木沢壮六は76年に15勝を挙げるなど12年間で67勝。完全試合も記録した。江川の印象が濃いのと世代的に作新学院優勝を知らなかったので八木沢が作新出身との認識もなかったが、今年作新が久々に優勝したおかげでいろいろと調べ物ができて面白かった。もし前回の作新学院優勝メンバーに興味を持った方がいればぜひ何らかの形で石川氏の本をお読みいただきたい。おすすめです。


きょうの1枚は八木沢壮六。先にも書いたが
完全試合男。1973年10月10日、県営宮城球場での太平洋戦だった。この日はダブルヘッダーで第二試合の登板予定だったが村田兆治の体調不良と、勝率1位のタイトル狙いでイニングを稼げと第一試合に立てられたという(北原遼三郎「完全試合」より)。作新の加藤は八木沢の代役で甲子園優勝投手になり、八木沢は村田の代役で完全試合。代役で頑張った人にはご褒美が出る流れがあるのかもしれない。今度何か頼まれごとがあったらきっちり引き受けよう。日頃自分の代わりに作業してくれている人にも感謝。

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完全試合―15人の試合と人生

完全試合―15人の試合と人生


11月20日追記
史上初の春夏連覇を達成した作新学院元監督の山本理氏が亡くなられました。
www.nikkansports.com


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