黒柴スポーツ新聞

ニュース編集者が野球を中心に、心に残るシーンやプレーヤーから生きるヒントを探ります。

黒い霧事件で消された西鉄ライオンズの名投手・池永正明~高山文彦「怪物の終わらない夜」を読んで

前回、後藤正治さんの「不屈者」に収録されている「幻の史上最速投手」を取り上げた。黒い霧事件に巻き込まれた東映フライヤーズの元投手、森安敏明の物語だ。今回はそこから派生して、同じく黒い霧事件により大好きな野球を奪われた西鉄ライオンズの元投手、池永正明の物語を紹介する。テキストは高山文彦著「運命[アクシデント]」。

運命(アクシデント)

運命(アクシデント)

 

 

プロ野球選手が八百長行為をしたとされる黒い霧事件では、選手6人が永久追放になった。そのうちの2人、森安敏明は、敗退行為をしてもらうために別の投手に渡してくれと託された金を返しそびれた。池永正明は元西鉄の先輩投手、田中勉(当時は中日)から八百長行為を頼まれ現金を渡されたが、先輩の顔を立てて返しそびれた。森安、池永はそれぞれ八百長行為を否定したが、永久失格処分が下されてしまった。1970年のことだった。

「運命」(文藝春秋)は単行本で、三つの選手のストーリーで構成されている。最初が、守備中に吉村禎章と激突してしまった元巨人の栄村忠広を取り上げた「ライジンク・サン」。二つ目が池永の物語「怪物の終わらない夜」だ(三つ目はバイクレーサー、ウェイン・レイニーの「汝自身の神」)。栄村忠広については以前取り上げたので(黒柴スポーツ新聞注目記事でなぜか常に上位)そちらをご覧ください。

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黒い霧事件に巻き込まれた森安敏明もかわいそうだが、池永正明を追放したことは球界の大損失だった。池永はプロ入り後の5シーズンで99勝。「怪物の終わらない夜」で紹介されているが、高卒後の5年で池永を上回るのは稲尾和久の139勝、金田正一の100勝だけだ。ほぼ順調に二桁勝った松坂大輔ですら67勝だったから、いかに池永が有能だったか分かるだろう。こんな名投手が八百長をやること自体あり得ないのだが、事件後の姿から垣間見える池永の一本気な性格からしても、八百長行為を承知して金を受け取ることも考えられない。「怪物の終わらない夜」に書いてあるが、池永に金を渡した田中勉自身、雑誌の取材に「人に言われてとにかく池永に渡してくれといわれた金だった。私は池永は絶対に受けとらんと思っていた。金なんかで動くはずがない。金を渡してくれと言った男に私はそう言ったんだ」と答えている。ここで思う。じゃあなぜ池永に金を渡しにいってしまったんだよ、と。田中自身、金を返すに返せなかったのか。

池永正明と、その時代

池永正明と、その時代

  • 作者:岡 邦行
  • 発売日: 1996/08/01
  • メディア: 単行本
 

 

「怪物の終わらない夜」でも主張されているが、黒い霧事件の処分は不可解だった。八百長を働きかけた田中勉は厳重戒告処分(と作中では説明されているが、疑惑のかかった田中は1969年に中日を自由契約となり、そのまま引退となったので1970年裁定では処分対象にならなかったと、北原遼三郎「完全試合」で紹介されている)。池永の永久追放とは雲泥の差だ。これについては、見逃せない発言が「怪物の終わらない夜」に紹介されている。田中勉は重い処分にならない代わりに、ある球界筋から口止めされたというのだ。「あの当時、西鉄以外の選手で、実際に八百長をやった選手は今すぐにでも70人の名前を出せますよ」。70人という数字がどうかは分からないとしても、この田中発言は重い。「怪物の終わらない夜」で書いている通り、「この話がほんとうであれば、池永は人身御供にされたと言えなくもない。消えたのではなく、消されたのだ」

 

なお、Wikipediaの「黒い霧事件」には「一方で、この事件が結果的に後の野球人生にプラスの影響をもたらした選手もいた」として、黒い霧事件でズタボロになり低迷した末に球団が売却された西鉄以降西武まで奮闘した東尾修が紹介されているが、冗談じゃない。文中にあるように東尾が数字を残せたのは彼が努力したことと「結果的に」であって、決してプラスの影響はなかったと思う。東尾は愛する野球を奪われた池永の無念が分かるからこそ、池永が引退後に開いた中洲のバー「ドーベル」に通ったのではないか。

ドーベルは2007年に閉店したそうだが、「怪物の終わらない夜」では店の様子が丁寧に描かれている。「池永さん、希望を有り難う!!」などなど、店のトイレには池永を思う落書きで埋め尽くされていた。なお、「怪物の終わらない夜」はもともとNumber PLUS August 1999 スポーツ最強伝説③に掲載されており(タイトルは「海峡-池永正明の半生」)、そのカット写真としてトイレの落書きを確認することができる。「海峡」というタイトルだった意味はぜひ作品を読んでかみしめていただきたい。

「怪物の終わらない夜」はこんな場面で終わる。森安の遺影を持った池永が、オールスター戦、野球殿堂入り表彰後の芝生の上に立っている……という高山文彦の想像だ。高山文彦も、池永正明も、それが実現すればという思いではあったが過去に池永の復権運動が実らなかった経緯もあり、二人とも本当に淡くはかない期待を何ミリかしか持っていない雰囲気だった。期待すらしていなかったかもしれない。だが思いはついに結実した。2005年、池永正明復権が認められたのだ。永久追放処分から35年たっていた。
これは喜ぶべきことかもしれない。しかしそれ以上に忘れてはいけないと思う。濡れ衣を着せられた池永さんの無念さを。愛する野球を奪われた池永選手の悔しさを。野球は最高の自己表現だったに違いない。野球を奪われた池永さんの、事件後の人生も大切だがやはり現役時代の輝きは特別だった。だからこそ言いたい。その人らしさを奪うようなことはあってはならない。組織の論理で個人が抹殺されることはいまだになくなっていない。黒い霧事件のような悲劇が二度と起こらないよう、一人一人の人生が尊重される社会であれと強く願う。

単純ではないソフトバンク二塁手~オールマイティー山田哲人VS周東、牧原、明石、川島

プロ野球が開幕しないうちから、というか開幕できないからなのだろうが、AERA.dotがさらっと山田哲人の動向どうなる記事を紹介していた。「巨人? ソフトバンク? 山田哲人が移籍したら“最もフィット”するチームは…」という見出しだったので、ソフトバンクファンの黒柴スポーツ新聞編集局長は反応してしまった。そして反論したくなった。確かに山田哲人はいい選手だし、ソフトバンクも獲得に動く可能性はあるけれどもソフトバンクのセカンドはそんなに単純なポジションではないのだ!と……

 

山田哲人二塁手。格別守備がうまい印象はないが、過去3年間は菊池を上回るリーグトップの補殺数を記録している、と記事に書いてあった。山田哲人といえばトリプルスリーが代名詞。走れるのも魅力だ。まさに走攻守、三拍子そろっている。トリプルスリーといえば柳田悠岐も記録したから、山田哲人ソフトバンク入りしたら同じフィールドに同じユニホームの二人のトリプルスリープレーヤーが立つことになる。これは史上初ではなかろうか? このように、山田哲人がいい選手であることは間違いない。

 

でも、である。確かにソフトバンクのセカンドは週替わり、あるいは日替わり的なポジションかもしれない。しかし近年のソフトバンクの野球は全員野球であり、その弾力的な選手器用を可能にしているのはセカンドが固定化されていないイコール可変であるからだとは言えまいか? 例えば川下慶三。左殺しの異名を持ち、代打や代走で入りそのままセカンドへ。明石は2019年シーズン、チーム最多の62試合でセカンドのスタメン出場を果たしたが他の選手を使う場合は代打に回る。

さらに2019年、離脱者やけが人続出のソフトバンクを支えた一人に牧原大成がいる。牧原が内外野を守れることで、例えば明石や川島がセカンドに入るなら牧原が外野に回るなど、効果的に人材が活用できた。不動のスタメンがいればチーム力が安定するのだが、ソフトバンクの場合は出る人出る人が活躍することでチームに勢いが出ている。そんな印象があるのだ。

デスパイネやグラシアルという実績ある外国人選手がいながらまだバレンティンを獲得したソフトバンク。3年連続で日本シリーズを制したとはいえ実はレギュラーシーズン、2年連続で西武の後塵を拝したのも事実。球団が遮二無二勝とうとするならばサクッと山田哲人争奪戦に参加しそうだが……黒柴スポーツ新聞編集局長は密かにソフトバンクのセカンド争いフェチなので、山田哲人が不動のセカンドになってしまったらスタメン発表いや、スタメン予想から楽しむというルーティンがなくなってしまう。

大事なことを忘れていた。セカンドといえば売り出し中の周東がいるじゃないか。周東にしてみれば2019年に代走でブレイクしたが、バッティングはまだまだ。セカンドの定位置を奪うことで「走」以外をアピールしていかねばならないわけで、周東にしてみれば一刻も早くプロ野球が開幕してまずはスタメンに定着したいと考えているのではなかろうか?

オールマイティーな人が職場にやってきた時、一芸に秀でた人々はどうやって生き残ろうとするのか。山田哲人ソフトバンクに来たら来たで、個性的なプレーヤーたちがどうアピールしていくのか。興味深いなと思う。

幻の史上最速投手・森安敏明の人生は幸せだったのか~後藤正治「不屈者」を読んで

先月、この黒柴スポーツ新聞がご縁となり、2冊の本が売れた。澤宮優さんの「あぶさん」になった男 酒豪の強打者・永渕洋三伝 (角川書店単行本)と、沢木耕太郎ノンフィクションI 激しく倒れよ(文藝春秋)。いずれも黒柴スポーツ新聞で取り上げさせていただいた作品だ。筆者が素晴らしいから、作品が面白そうだから、今は家で過ごすことが推奨されているから……などなど、本が売れる要素はあるが、よい作品がどなたかと共有、共感できたことがとてもうれしい。今回取り上げる、後藤正治さんの「不屈者」もぜひ面白さを分かち合いたいと思う。

不屈者

不屈者

  • 作者:後藤 正治
  • 発売日: 2005/12/15
  • メディア: 単行本
 

 

「不屈者」は5人の人物のストーリーが一章ずつ並んでいる。最初に出てくる「幻の史上最速投手」の主人公は森安敏明。東映にいたピッチャーである。岡山の関西高校時代から有名で、平松政次(岡山東商高出身、大洋)、松岡弘(倉敷商高出身、ヤクルト)と共に岡山三羽ガラスと言われた。高3の夏は平松と甲子園をかけて東中国地区の決勝で投げ合った(結果は2-1で岡山東商高がサヨナラ勝ち)。だが、平松が200勝を達成したり、松岡がヤクルト時代日本一になるなどの栄光に輝いたのと対象的に、森安はあの事件に巻き込まれたことでダークな印象になってしまっている。いわゆる黒い霧事件のことだ。

 

ざっくり言えば、森安は八百長行為を行った西鉄ライオンズの投手、永易将之から、翌日登板予定のピッチャーに50万円渡してくれと札束をポケットにねじ込まれた。返そうと思っているうちに永易の八百長疑惑が発覚し、森安は返せない金を使ってしまったという。八百長に関しては否定している。
[裁定主文/森安敏明投手に対し、全国プロフェッショナル野球機構のあらゆる職務につく資格を永久に否認する]
「幻の史上最速投手」には1970年7月30日付の裁決文が紹介されている。森安は黒い霧事件最後の追放者であり、永久追放された選手の中には西鉄ライオンズ池永正明もいる(池永は35年を経て2005年に処分解除)。

 

後藤正治さんが森安に関して書いたのは、著作「スカウト」の主人公、木庭教(きにわ・さとし)や「牙」の主人公、江夏豊が口をそろえて、速球投手の名前に森安敏明を挙げたからだった。そしてずばりそうとは書いていないが、いつまでも黒い霧事件の当事者(本人が敗退行為を否定しているにもかかわらず、だ)としてしか語られない森安の本当の姿を書きたかったのだと思う。

スカウト

スカウト

 

 

仲のよかった江夏を筆頭に、高校時代のライバル平松政次、対戦相手の土井正博、恩師、同級生、永久追放後に出会ったスナック経営者、そして森安の奥さん。後藤さんという人はどのくらい時間をかけ、どのくらい丁寧に話を聞いて作品を仕上げているのか。毎回作品を読むたび感心してしまうのだが、「幻の史上最速投手」を読むと読者も一緒に、森安敏明をめぐる旅をしている感覚になる。その中でも、特に印象に残ったのが大村三郎のくだり。元ロッテのサブローだ。サブローは何と小学生時代に2年間、森安から野球の手ほどきを受けていた。
「個人練習が終わると、森安の家に立ち寄る。大村少年はジュースを飲み、男は酒を呑む。ころっと顔つきも変わって、『優しいオジサン』になった」
このくだり最高。森安の指導はシャドーピッチング1時間やら腹筋500回やら、なかなか厳しかったらしいが、サブロー少年には純粋に野球を愛する姿勢が印象に残った。サブローのくだりだけでも、森安が潔白であると確信できる。

「幻の史上最速投手」の中で後藤さんは、ただ単純に、黒い霧事件に巻き込まれた森安をかわいそうな人物としては描かない。森安とゆかりのある人の語りから、少々脇の甘さはあったかもしれないがひたむきに野球に向き合った一人の人物像を浮き上がらせている。後藤さんが森安の生涯をどう結論付けたのか。私は物語の締めくくりを読んでとても救われる思いがしたのだが、ぜひ「幻の史上最速投手」を読んで皆さんにも考えていただければと思う。

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有森裕子が求めた走る意味、生きる根拠~後藤正治「ロード」を読んで

昨日、沢木耕太郎の「儀式」を取り上げた。儀式の中では次のくだりが心に残った。
栄光を手にすることは非常に難しい。しかし、失った栄光を忘れ去ることはもっと難しいものなのだ。そして、さらにいえば、失った栄光を再び手にすることの難しさは、それらの比ではない。
表彰、評価の類いから縁遠い黒柴スポーツ新聞編集局長にしてみれば、そんな苦しみは別次元のものに思える。だが、栄光をつかんだ人にしか分からない苦しみはあるんだな、と別の作品を読んで学ぶことができた。昨日も紹介したNumber15周年特別編集 20代のテクスト「スポーツを読む」。に収録されている、後藤正治有森裕子 『ロード』。」だ。

有森裕子は1992年バルセロナ五輪でマラソン銀メダル、1996年アトランタ五輪で銅メダルを獲得した。この「ロード」が収められているNumberは1995年発行。有森裕子バルセロナで結果を出した後、苦しんでいた。故障もあったが何より、どう生きるかという問いに対して、だった。

それって、ぜいたくな悩みだなと思う人がいるかもしれない。編集局長も同感だ。銀メダル取ったんだから上等じゃない、何を悩むことがあるんですか?と。しかし有森裕子の悩みはもっと深いものだった。「ロード」の中ではこう書かれている。
自分の求めているのは“走る根拠”だった。もっといえば、“生きる根拠”だった。

「我が道」有森裕子

「我が道」有森裕子

  • 発売日: 2018/03/30
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
 

 

後藤作品のオーソドックスな手法なのだが、後藤正治さんは関係者を丁寧に描くことで、主人公の輪郭を際立たせる。「ロード」では指導者として金哲彦、小出義雄が出てくる。そして、同時代に活躍したランナーの山下佐知子森下広一も取り上げている。有森はバルセロナ後、レースから遠ざかる時期があったが、山下も森下も不完全燃焼の時期があったそうだ。二人に迫ることで、後藤さんは有森裕子が向き合った悩みの普遍性にたどり着いた。有森裕子にとって、苦しいことを頑張るのは辛くなかった。辛かったのは頑張れる対象がないことだった。マラソンは走る根拠を問わずにはおれない競技でもあったのだ、と後藤さんは書いている。

「結局、どう生きるかということなんですね」
取材に対して山下佐知子がそう話した。

後藤正治さんはこう解釈した。
「私は、マラソンランナーたちと出会って、彼らがマラソンランナーという存在故に、この問いを放射しつづけていることを感じた。とりわけ有森裕子には濃厚だった。だから彼女に引きつけられたのだと思う。それはマラソンランナーたちだけではなく、私たちの、私自身の、いま現在の問題でもあったからである」
いかがだろう。アスリートに限らず、いかに生きるかは重要だ。迷惑さえ掛けなければ、みんなが生きたいように生きられる社会であってほしいと思う。どの人生だって、主人公は自分自身なのだから。復活のレースで勝った有森裕子アトランタ五輪で銅メダルに輝く。この復活劇をかみしめると、何だか自分自身も救われる気がする。いつか自分も報われる日がくるんじゃないか、と。

ジャンボ尾崎がつかんだ、勝利より大切なものとは~沢木耕太郎「儀式」を読んで

沢木耕太郎のノンフィクション「儀式」を読んだ。「激しく倒れよ」に収録されている。主人公は尾崎将司。プロゴルフの世界で活躍した「ジャンボ尾崎」だが、彼は元々プロ野球選手だった。黒柴スポーツ新聞編集局長はゴルフ知識に乏しいのだが、元プロ野球選手の話、という入り口から「儀式」にたどり着いた。そしてしびれた。沢木耕太郎の将来を決定付ける作品だし、今さら紹介するまでもなかろうが、まだの方にはぜひ読んでいただきたいと思う。

沢木耕太郎ノンフィクションI 激しく倒れよ

沢木耕太郎ノンフィクションI 激しく倒れよ

 

 

尾崎将司は徳島海南高校時代、センバツで優勝。スカウト合戦の末、西鉄ライオンズに入る。だが投手としての成績はパッとせず、打者挑戦も泣かず飛ばずに終わった。だが尾崎将司には別の道があった。ゴルフである。

着陸の日まで ―尾崎将司とその時代

着陸の日まで ―尾崎将司とその時代

  • 作者:佐藤 朗
  • 発売日: 2019/07/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

「儀式」には転職、というキーワードが出てくる。甲子園に出た海南高校の同級生らは約半数が転職した。沢木はその「変わり身の速さ」に注目したが、それには理由があった。1995年11月2日発行のNumber 創刊15周年特別編集 20代のテクスト「スポーツを読む」。に書いてあるのだが、沢木耕太郎は別の取材の過程から、若者の転職に着目していたのだった。ちなみに「儀式」はこのNumberにも収録されている。儀式についての本人解説付きだから、このNumberはどうにかして手に入れていただきたい逸品と推薦しておく。沢木は、尾崎も高卒の転職者だから何かしら書けるかなと思ったわけだが、その視点はそれほど重要なものではなくなっていく。同世代人としての尾崎に引かれていったからだ。

儀式の舞台は1971年の日米対抗ゴルフ。人気が出てきた頃の尾崎将司が有力選手らと出場したのだが、その試合展開と尾崎の人生を交互に描いている。この手法にたどり着くまでに時間を要したものの、沢木は「スタイル」を手に入れた。確かにゴルフの試合が進むのと、尾崎将司のエピソードが交互に出てくるので、非常にドラマチックに読める。もし別々に書かれていたら、片方はゴルフの観戦記、片方は尾崎将司の足跡以上のものにはなり得なかっただろう。黒柴スポーツ新聞編集局長も、このようなスタイルにいつか挑戦してみたいと思う。

前回、沢木耕太郎「さらば 宝石」を取り上げた時はタイトルが分かりにくいと思う、との感想を書いた。今回は全く逆。ネタバレになるので書かないが、もう「儀式」以外のタイトルはあり得ないくらいにゾクゾクする締めくくりだった。着地がピタリと決まるというか、もう鳥肌が立つような……えっ、これを23歳の沢木耕太郎が書いたのかと驚いた。早熟すぎる。もちろん後にノンフィクションの世界でたぐいまれな才能を評価されるのだが、沢木自身「はじめの一歩」と認識する「儀式」の完成度の高さには舌を巻いてしまう。編集者も徹夜で付き合った末の作品らしいが、こんな作品を書き終えた時の彼らの感動を自分も感じてみたいなと思った。もちろん黒柴スポーツ新聞編集局長も元新聞記者だから、手応えは何度も感じてきた。現場を離れて久しいが、この感動はぜひもう一度味わってみたい。感動の前にはものすごい「産みの苦しみ」があるのだけれど。

若き実力者たち

若き実力者たち

 

 

「儀式」を解説した「はじめの一歩。」で沢木は、スタイルと同時にスポーツの世界、勝負の世界を書くという「ジャンル」を手に入れた、と書いている。黒柴スポーツ新聞編集局長もそれがやってみたい。尊敬する後藤正治さんは自身を特にスポーツノンフィクションが専門とは思われていないそうだが、スポーツには勝負とか人生とか、人間性が凝縮されているのでスポーツの現場が多いみたいなことを言われていたような記憶がある。編集局長は単純にスポーツが好きなこともあるが、後藤さんのように人間性を追う観点から、今後もスポーツ選手を追い、スポーツ中継を見て、独自の解釈を加えていこうと考えている。

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最年少2000安打の榎本喜八は引退後なぜ走り続けたのか~沢木耕太郎「さらば 宝石」を読んで

昨日、西本幸雄元監督生誕100年を勝手にお祝いしてブログを書いた。1960年に大毎オリオンズを率いて出た日本シリーズスクイズを失敗。それがオーナーとの決別につながったことなどを書いた。

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このエピソードが出てくる作品がもう一つある。沢木耕太郎の「さらば宝石」。沢木耕太郎ノンフィクションⅠ(いち)激しく倒れよ(文藝春秋)に収録されている。今回はこれを取り上げる。

沢木耕太郎ノンフィクションI 激しく倒れよ

沢木耕太郎ノンフィクションI 激しく倒れよ

 

 

「さらば 宝石」の主人公はE。屈指の好打者だった。スポーツに強い黒柴スポーツ新聞の読者ならお分かりだと思うので書いてしまうが、Eとは榎本喜八である。2314安打を放ち、かつ、史上最年少での2000安打達成者である。2020年シーズンに巨人の坂本勇人が2000安打を達成した場合、その時期によっては史上最年少記録が更新されたのだが、プロ野球開幕の見通しが立たない今となっては大記録樹立は絶望的だ。そんな中だからこそ、最年少2000安打男ってどんな人なの?と知る意味でも今「さらば 宝石」を読むことは面白いと思う。

作品は一つの噂から始まる。引退したはずのEがいまだにハードトレーニングをしている。どこかのチームが戦力として呼びにくると信じているらしい、というのだ。あり得ない話。とあっさり言えないのが榎本喜八。彼は求道者なのだ。たとえ1日に4安打しても、体(たい)が生きて間(ま)があったものだけがヒットと考える榎本は、納得がいかなければ部屋の中でグリップを握って考え込んでしまう……そんな選手なのだった。沢木耕太郎は作中に「overreach」という単語を用いた。ニューヨーク・タイムズ元記者でノンフィクションライター、ゲイ・タリーズの著作に「The Overreachers」という作品がある。盛りを過ぎた人々をゲイ・タリーズはそう名付けた。overreachには背伸びし過ぎた、行き過ぎたという意味があるが、沢木耕太郎は「行き過ぎた」の語感を重要視した。榎本喜八をもそう見ていた。

沢木耕太郎が、榎本喜八のターニングポイントに挙げた事件こそ、西本幸雄監督によるスクイズ失敗だった。榎本喜八は大毎ミサイル打線の一角を形成していた。田宮謙次郎榎本喜八山内一弘、葛城隆雄と並ぶミサイル打線は超重量級だったが、日本シリーズ第2戦のヤマ場で榎本喜八にバントさせるなどしてたどり着いた満塁のチャンスで西本監督は谷本にスクイズをさせた。しかしキャッチャーゴロになり突っ込んできた三塁走者はタッチアウト。打者走者も一塁でアウトになりチャンスはついえた。その夜西本監督の自宅に永田雅一オーナーから電話が。「あんな消極策をなぜとったのだ」云々。西本はこう応じた。「作戦は監督の直感によって決めるものだ。だからこそ責任もとる。だが、無責任な評論家が事後にいうことによってなにかをいわれるのは心外だ」……。馬鹿野郎→撤回してください→シリーズ後に西本監督辞任の流れは昨日書いた通り。この一件でチームはどんどん崩壊していく。西本は去り毎日新聞が経営から手を引いた。榎本喜八の師匠、荒川博は追い出され、山内と葛城はトレード。田宮は監督とそりがあわず引退。作中の表現通り「一瞬のうちにミサイル打線は崩壊した。そしてEだけが残った」。

打撃の神髄 榎本喜八伝 (講談社+α文庫)

打撃の神髄 榎本喜八伝 (講談社+α文庫)

  • 作者:松井 浩
  • 発売日: 2016/02/19
  • メディア: 文庫
 

 

しかし榎本喜八はバッティングに専念できず彼自身も「壊れて」いく。日米対抗のゲーム前にダグアウトで一時間以上座禅。自宅に猟銃を持って立て籠る。荒川が駆けつけてドアを開けると発砲した(天井へ、だが)。選手としてのピークを過ぎたり、奇行が聞こえてきたりしたら、そりゃどのチームからも声は掛からないだろうと思う。榎本喜八はオリオンズから西鉄ライオンズにトレードされ、引退した。ミスターオリオンズとさえ形容された男にしては寂しい結末だった。

消えた球団 毎日オリオンズ1950~1957

消えた球団 毎日オリオンズ1950~1957

  • 発売日: 2019/06/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

だが榎本喜八は結末と思っていなかった。榎本がハードトレーニングをしているのはそういう意味だった。「ともあれ、Eが『さらば 宝石』といわないかぎり、overreacherとしての彼の物語は完結しない」。沢木耕太郎はそう書いたが、個人的には作品タイトルにもなったこの「さらば 宝石」が分かりにくかった。野球場のダイヤモンドにさらばと言うかどうかというくだりがあるのでダイヤモンドを宝石に置き換えたのだろうが、詩的すぎてリアリティーが感じられなかった。ノンフィクションの名手であり、異を唱えるのはおそれ多いなとも思ったが、いち読者としての率直な感想だ。もう少しスポーツを連想させるタイトルでもよかったんじゃないかと思う。エキスを書いてしまったらネタバレなんじゃないかと思われそうだが、沢木作品はこのくらいではびくともしない。ぜひ「さらば 宝石」本編を通してお読みいただき、榎本喜八がなぜ引退後も走り続けたのか、想像してみてください。

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悲運の名将は信念の人~勝手に西本幸雄元監督生誕100年読書企画

4月25日は故・西本幸雄監督生誕100年の節目だった。西本監督を慕う山田久志オリックス球団の企画で、京セラドームでメモリアルゲームが行われる案があったが新型コロナウイルスの影響で開催できなかった。メモリアルゲームどころかプロ野球自体が行われていない。大変な状況だ。そんな中ではあるが、野球バカならできうる限り西本監督ワールドに浸りたい。そこで、野球本が詰まった本棚を漁ってみた。巣ごもりが奨励される今、読書や調べものをしたりしてマニアックな野球ネタに浸りたい方の参考になればと思う。

西本監督と言えば大毎を率いて出た日本シリーズ中、作戦についてオーナーに介入されたことを受け入れず、シリーズ後に辞任したエピソードが有名だ。あまりに有名すぎてエピソードが衣をまといすぎ、どれが本物か分からない。まずは立石泰則著「魔術師」〈下〉三原脩西鉄ライオンズ(小学館文庫)第17章 三原魔術 より。日本シリーズ第2戦でスクイズに失敗した西本監督は後援者に誘われて料亭で飲んでいた。励まされていたのだ。そこに永田雅一オーナーから電話が入った。「あのスクイズは何や、ウチは、ミサイル打線だぞ」。しかもおれの隣には中沢不二雄パ・リーグ会長と鶴岡一人監督もいるんだぞとけしかけてきた。もうこの時点で西本監督に寄り添いたくなるのだが、ひるまないのが西本幸雄。「中沢さんや鶴岡さんといえども、いまのオリオンズの状態を一番把握できているのは、私以外におりません」。西本監督はきちんと作戦の妥当性も説明したのだがまず自分が一番現場を把握していると言い切る姿勢が素晴らしい。そう、監督とはマネージャーなのだ。おれがきっちりマネジメントしてるんだから四の五の言いなさんなということだが、それをオーナーに言うところが偉い。しかし永田雅一は受け入れず「鶴岡やそこらの人物が言うとるのに、お前は何や。バカヤロウ」「バカヤロウとは何ですか。その言葉を取り消しなさい」。で、西本監督は日本シリーズ敗退後に辞任した。この調子なら日本シリーズ勝っていても関係はギクシャクしていたに違いない。監督1年目で大毎を10年ぶりに優勝させた西本監督を去らせた大毎は最悪だなと思う。

この永田雅一からの電話、西本幸雄が自宅で受けた説もある。富永俊治著「三原脩の昭和三十五年」(宝島社文庫)第12章 頂点一気 にはこう紹介されている。「西本君か。負けたのは仕方ないが、スクイズは困るよ、キミ」「なぜでしょう?」「いいかね。オリオンズの売り物はミサイル打線なんだ。それがスクイズじゃ、売り物が泣くとはおもわんかね」。これに対して西本監督はこう反論した。「オーナー、戦術に関することは、監督である私に任せてもらいます」。どうだろう、前述の「魔術師」とはやりとりの意味合いは同じだが、シチュエーションは全然違うし、バカヤロウのくだりもない。野球読書マニアともなるとこういう矛盾もむしろお楽しみになる。で、「三原脩の昭和三十五年」では西本監督はそのやりとりの締めに「それならば、負けたら責任を取らせていただきます」と言っている。

なお、バカヤロウ云々はどうやらあったようだ。ベースボールマガジン社、スポーツ20世紀③プロ野球名勝負伝説「江夏の21球」の向こう側 近鉄の将・西本幸雄はそのときー。(文・横尾弘一)にこんな西本監督の言葉が紹介されている。「永田さんに『バカヤロウ』と言われてクビ。もう監督なんて二度とやるもんかと思ったよ(笑)~以下省略~」。

 

西本監督が素晴らしいのは自分が一番現場を把握していると言い切ったこと、そして結果的には失敗したが自分の作戦が最善だったと思ったことだ。自分が最良と信じて選んだ道ならば、結果は潔く受け止める。この辺りは個人的に足りてないので、西本監督の姿勢は見習いたいなと思う。なお、全くフォーカスされていないが西本監督は第4戦でも勝負どころでスクイズを敢行。またもや失敗に終わっている。そしてその19年後の日本シリーズでまたもやスクイズを企て失敗……。ベースボールマガジン社、スポーツ伝説17 プロ野球日本シリーズ伝説 『江夏の21球』の裏側で繰り広げられた“監督たちの21球”球史に残る名場面をベンチで見守った二人の指揮官は、何を思い、どう動いたか(文・松下茂典)には、石渡茂に命じたスクイズが今も正しいと思うか問われた西本監督の言葉が紹介されている。「もしも、もしもよ。近鉄球団がかつての永田雅一さんみたいな格好でやね、『あんな手はないだろう』と言ったら、『いや、おれはこの方法が一番確率が高いと思った』という言葉を即座に返しただろうね」。即座に。カッコいい。そう言い切れるくらいの覚悟があった、ということだろう。日本シリーズ通算32敗。人は西本監督を悲運の名将と呼ぶが、案外ご本人は嫌じゃなかったのかもしれない。

選ばれるために必要な発掘力~後藤正治さんが説くルポの可能性

スポーツ雑誌Numberが創刊40年という。学生時代、たまにしか買えなかったがはずれがない(かなり吟味して買う号を選んだ面もある)、そんな印象だ。先日のサンデースポーツでNumber40年の歩みを振り返っていた。ゲストに私の大好きな後藤正治さんが出ていた。「結果だけなら情報がすぐ得られる。その状況で雑誌のルポルタージュの役割は?」と大越キャスターは質問した。後藤正治さんは「発掘力」という言葉を提示した。

 

「結果だけでなく、なぜそういう結果が生まれたのかという、なぜなんだ?と疑問、問題意識を持つ読者は結構多いと思う。その層に応えていくものが雑誌かなと」
「いわば一つの物語を提示する、新しい解釈、解析を提示するというか。そういう発掘力が求められているのかなと思う」

Numberの部数はピーク時、47万部だったそうだがいまは12万部(これでもすごいと思うが)。わが新聞業界も雑誌の心配をしている場合ではなく、ものすごいスピードで部数を減らしている。無料で読める媒体が増えたのもあるが、有料でも読みたくなるコンテンツを提示できていない側面はあると素直に思う。速報ではネットにかなわない。とかくネットの情報は玉石混淆とかいうけれど、いやいや、ネットの情報だってクオリティーの高いものはいっぱいあるし、紙媒体でも努力不足が露呈している作品はある。選ばれる作品にならねば淘汰されるに決まっている。みんな「忙しい」のだから。このブログは商業的ではなく、スポーツ好き、特に野球ファンに最高の暇つぶしをしていただきたいと、そんな思いで書いてきた。筆者の自己満足に毎回お付き合いいただき恐縮なのだが、後藤正治さんの言われた「なぜ」に応える「発掘力」は意識して取り組みたいなとあらためて考えている。

優しい人が怒ると恐ろしい~関根潤三は門限破りの衣笠をどう諭したのか

前回、関根潤三さんのことを書いたが実はもう一つ書きたいエピソードがあった。いかにも優しそうな関根さんぽい逸話で大好きなので、関根さんを偲ぶこのタイミングで書いておきたい。出典は近藤唯之著「プロ野球新サムライ列伝」(PHP文庫)ナマイキざかりに出会った人生の師 衣笠祥雄(212~219ページ)。そう、衣笠にとってのこの師こそ関根潤三さんだった。

事件が起きたのは衣笠プロ6年目の昭和45年夏。衣笠は売り出し中の若手だった。雨でゲームが流れたその晩、衣笠は夜の街に繰り出した。それ自体は問題なかろうが、門限11時をはるかに越える深夜2時近くに合宿所に戻ってきた。そーっと部屋に入ろうとしたところに「祥雄、待ってたよ。さあ素振りをしようか」。関根さんが現れた。階段に座って待っていたらしい。

いきなり声を掛けられること自体びっくりするが、しかも関根潤三、しかもこの内容である。当時の関根さんはヘッドコーチ格で、投手、打者両方を担当していたという。ヘッドコーチなら門限破りに対し怒鳴っても何ら不思議はない。むしろガツンと言ったり、戒めるだろう。だが関根さんは「さあ素振りをしようか」である。考えてみてほしい。当然怒られる場面で「祥雄、待ってたよ。さあ素振りをしようか」である。衣笠は血の気が引いたに違いない。

「我が道」衣笠祥雄

「我が道」衣笠祥雄

  • 発売日: 2018/04/27
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関根さんは寝間着のゆかた姿、衣笠は上半身裸で200スイング。技術的な指導しかされなかったが、酒が抜けてきた衣笠には、関根さんが鬼のように見えたという。確かに、いかにもというテイで怒る人だけが鬼ではない。本当に大切なことをじんわり諭す。しかも自覚を促しながら。鬼は高等なテクニックを持っているのだ。

アラフォーともなると、怒られる衣笠の心境というよりは指導する側の関根さんの気持ちが近くなってくる。関根さんはどんな気持ちで衣笠の帰りを待っていたのだろうか。酔って帰ってきた衣笠に「待ってたよ。さあ素振りをしようか」と言った瞬間は最高に気持ちよかったかもしれない。うわ、オレ言ったったわ~、キタ━(゚∀゚)━!みたいな。ただし効果的にやるためには普段から人間性を磨いておかないといけないだろう。日頃優しく温和だからこそそのギャップでビビらす。やっぱりあの怒り方、諭し方は関根潤三の真骨頂だったよなとあらためて思った。

落合監督は血の涙を出している~関根潤三さんの優しい解説に学ぶ

関根潤三さんが亡くなった。穏やかな語り口調の解説は、決して選手をくささないことを含めて聴き心地がよかった。解説者の鑑だと思う。そんな関根潤三さんがあの落合采配、完全試合山井大介降板からの岩瀬仁紀登板をリアルタイムで解説していたことを知った。関根さんはあの采配、決断をどう語ったのか。

誰もが山井大介の史上初日本シリーズ完全試合を望んでいたが、落合博満監督は9回、守護神・岩瀬仁紀へのリレーを決断した。このつらい決断をしなければならないのではないか。関根さんは試合途中からそう恐れていたという。そして、落合監督は決断した。そして、関根さんはその心中をこう解説した。

「監督も血の涙を出している」

采配

采配

 

こんな詩的な表現、なかなか昨今の野球中継ではお耳にかかれまい。そしてこうも思う。本当にそのような場面に遭遇した人でなければ、当事者の心境など分かりはしないのだ、と。関根さんは大洋とヤクルトで通算6シーズン監督を務めた。決して華々しい結果は残せなかったけれど、目の前の1勝を取るか、若手の成長を促すか、ピッチャー交代のタイミング一つとっても難しい決断はずいぶんあったことだろう。あの完全試合リレーのさなか、スタジアムはほとんどの観客が山井大介寄りの心境で、なぜ代えるのかと憤ったファンや視聴者もずいぶんいたに違いない(かくいう私も山井大介完全試合希望者だった)。そんな中、関根さんは落合采配を非情だとは言わず、監督としてこんなつらいことはない、と慮った。本当のつらさなんて、当事者や経験者にしか分からないのだ。

きょう書きたかったのはそういうことなのだが、もう一つ付け足したい。それは、本当のしんどさは当事者や経験者にしか分からないのだけれども、それを想像しようとする姿勢は大切で、そういう姿勢はピンチの人を勇気づけるということだ。私はいつも親友に助けてもらっている。私も困ったりピンチの人の存在に気付いた時は、つらい心境を想像してみようと思う。

決まった日程に合わせる~ヤクルト高津監督の言葉より

朝、目覚ましが鳴った。休みだからアラームを消しておけばよかった。しかし用事はある。すぐ起きて、愛犬と散歩した。早起きというほどでもなかったが、三文の徳はあった。新聞記事で見た、ヤクルト高津臣吾監督の言葉に刺激を受けたのだった。

「(新型コロナウイルス感染拡大で)なかなか先が見えないが、野球選手として決まった日程に合わせることも大きな仕事の一つ」
なるほどな。そしてこうも思った。野球選手も一般社会人も、決まった日程に合わせることは本当に大事だよな、と。

それは自分のためでもあるが、大概は周りのためだ。提出物の場合は自分が提出を遅らせたら取りまとめが遅れる。発注や締め切りが遅れたら納期が遅れる。当たり前のことだが、当たり前のように遅らせてしまう人がいる。一人一人が気を付ければかなりの無駄は減る。その恩恵が得られたら、その時間は何か楽しいことをして過ごしたい。

プロ野球選手、例えば先発ピッチャーならばローテーションを組むから次回登板が分かる。それに合わせて体をケアし、気持ちを高め(あるいは鎮め)、登板に備える。「仕事」がうまくいってもいかなくても、その繰り返し。ピーキングという言葉もある。調整もプロ野球選手の大事な仕事なのだ。一般人の仕事はそこまで世の中に影響やインパクトを与えるものではないが、決まった日程にピタリと着地するクセは付けたい。そのためにも自分が思う最高のタイミングで力強く踏み切りたい。そうありたいと思う。

どうにもならないことをどう消化するか~大リーグデビューできない筒香嘉智

どうにもならないことは、あれこれ考えない。そうすべきだよと言われたことがある。頭では分かっているが、心では割りきれない。さて、どうしようか……とずっとモヤモヤしていたが一つ答えをいただいた。それは日経新聞3月26日付のスポーツ面にあった。

 

篠山正幸さんの「逆風順風」。レイズに移籍した筒香嘉智はこの感染症の影響で開幕が延期されたことについて、「僕たちが左右できない部分」と受け止めているという。篠山さんはそれについて、トップ選手の語る「仕方がない」の裏には単なる諦観や無力感ではない、鍛え抜かれた精神が到達した境地があるように思われる、と書いた。

空に向かってかっ飛ばせ! 未来のアスリートたちへ

空に向かってかっ飛ばせ! 未来のアスリートたちへ

  • 作者:嘉智, 筒香
  • 発売日: 2018/11/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

コラムのこの段落は胸に刺さった。
伸び悩む選手に限って、自分の領域でないことに首を突っ込み、無駄に時間を使っていることがある。してみると、一流選手の割り切りは一朝一夕にできるものではなく、一通りの挫折や失敗を経験してみて得られるもの、とも思われる。

スポーツ選手と一般人は違うけれど、挫折や失敗を経て、というくだりは共感できた。何事も経験に裏打ちされた言葉には重みがある。アスリートは結果がすべて。連勝できる選手もいるが、大抵は負けがつきものだ。スランプだってある。一流選手であるからこそ、切り替えや困難の克服も一流、ということだろう。一般人はそこまでうまくはいかないのだけど、挫折や失敗を多少経験しておくことで、切り替えの必要性は認識できるような気がする。自分でどうにかなることなら全力で環境を変えたらいいが、それが難しいなら雨宿りしながらでも雨がやむのを待つしかない。

きょうはこのコラムの構想を練りながら半時間、雨中散歩した。愛犬の黒柴を連れて。愛犬は雨を嫌うからそんな日はすぐ帰るのだが、きょうは小雨だったからか帰ろうとしなかった。パラパラと傘に当たる雨音は、頭を整理するよいBGMとなった。濡れるから私も雨中の犬の散歩は嫌なのだが、きょうは考えごとをする上で悪くはなかった。天気も人間がどうすることもできないものの一つ。雨が降ったらそれなりに過ごすしかない。それなりに過ごせばいいのだ。

そういう気持ちになれたのはあの日経新聞のコラムと、筒香嘉智のおかげだ。なぜか大リーグは熱心に追わないのだが、筒香のことは応援しようかなと思い始めた。自分ではどうにもならないことをどう消化して、どう結果を残すのか。筒香の生き方を参考にさせてもらおうと思っている。

目の前のアウトを取る~ソフトバンク高橋純平の思考に学ぶ

Sportiva高橋純平のインタビューが紹介されていた。ホークス髙橋純平「野球を苦しいと感じていた」。その重圧をなくしたコーチの助言、という記事だ。個人的に参考にしたい、真似したい前向きさがあったので、今日はこちらを深掘りしてみたい。

 高橋純平は2015年のドラフト1位。しかし即結果が出ることはなく、4年目の2019年、ようやく才能が開花した。コンディションによるものはあったのだろうが、それまでの3年間とは何が違ったのか。確かに気になっていた。ズバリ記事に書かれていたのは3年目途中にもらった、コーチのこんな言葉だった。

「お前がドラフト1位で入団したことなんて、もう誰も覚えてないよ」

 一見乱暴な言葉に見えるが高橋純平は「プロは入ってしまえばドラフト1位も2位も関係ない世界なので、それに気づくことが出来たんです」と振り返っていた。それまではずいぶんと重圧を感じてしまっていたようだ。ファンからの期待に応えねば。その思いと結果の間でもがき苦しんだことだろう。「野球を楽しむことよりも、苦しいと感じることのほうが先に来ていた気がします」とも述べている。

2019年のソフトバンクは投手陣が総動員され、若いピッチャーもどんどん起用された。高橋純平もようやく1軍の戦力になり、中継ぎをすることになった。まずはそのイニングに全力を尽くす。目の前のバッターに集中する。それがよい結果につながったのだそうだ。「一球、一球全力で投げられたことが良かったです。それまでは先発を見据えて勝手に逆算してしまっていました。例えば、5イニングは最低でも投げたいというように思っていたり。1イニング、その一人の打者に対して全力でどう抑えるかという中で、ストレートの球威が戻ってきたように思います」

中長期的な仕事をしていると、息切れしないよう、無意識に力をセーブしているのかもしれない。それはある種の自己防衛であり、自分の力を過信しない、オトナの対応でもある。しかし一投一打に人生がかかるプロ野球の世界で、そんなに自分のペースで事が進むはずもない。まずはそのアウト一つを取ることに最善を尽くす。裏返せば、そのアウト一つ取れないようでは先はないのだ。こうした思考の結果、高橋純平は球威を取り戻した。高橋純平は4年目にしてうれしいプロ初勝利。なんと翌日にも勝ち星が付いた。新人以外での、プロ初勝利から2日連続の勝ちはプロ野球史上初。野球の神様からの粋なプレゼントだった。

個人的には高橋純平が先発する姿が見たい。本人もゆくゆくは……と思っているのかもしれないが、2020年の先発ローテーションには高橋純平の名前はない。昨年同様、中継ぎでの登板だろう。甲斐野が離脱していることもあり、高橋純平の出番は「後ろ倒し」で試合の終盤になってくるかもしれない。まずは持ち場で結果を出してもらいたい。それを続けることが高橋純平のブランド化になる。結果も出さずに先発をやりたいんです、と言うよりよっぽど説得力がある。まずは目の前のアウト一つに集中する。中長期的な目標を達成するためにはその積み重ねなのだ……というごく当たり前のことを高橋純平のおかげで再認識できた。私も欲張らず、できることから一つ一つ丁寧に取り組んでいこう。

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「大活躍翌年に不調」甲斐野はどうなる?~目指せ佐藤道郎の68登板

けがの具合が気になるが、甲斐野央は大丈夫だろうか。ルーキーイヤーの2019年はいきなり65試合に登板。しかし2020年はキャンプから別調整になってしまった。

大車輪の活躍をした翌年、けがや不調に苦しむのは岩嵜翔(72試合で6勝40ホールド→2試合で1勝1ホールド)もそうだったし、加治屋蓮(72試合で4勝31ホールド→30試合で3勝6ホールド)も石川柊太(42試合で13勝→2試合で0勝)もそうだった。果たして甲斐野はどうなのだろうか。そして繰り返される悲劇は属人的なものなのか、チームとしての欠陥なのか。しっかり対策はとってもらいたい。

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セットアッパーなり守護神になると登板数が70試合前後になるのはもはや仕方ないのかもしれないが、このレベルを130試合制の時代にやっていた人がいたと最近知った。佐藤道郎。1969年のドラフト1位で、1974年は68試合。これは130試合制で最多らしい。

元ネタは3月12日のNEWSポストセブン記事「野村克也さんが抜擢、日本球界に革命を起こした初代セーブ王」。初代セーブ王って誰かいなと思ったら佐藤道郎だった。甲斐野の65試合(全143試合)もすごいが佐藤道郎の68試合は130試合制だから、2試合に1回ペースを上回る。これはなかなか過酷だ。

さらに佐藤道郎がすごいのはイニング数だ。
「この頃は抑え投手が2~3イニング投げることは頻繁にあり、佐藤は主にリリーフを務めた7年間で6度も規定投球回数(=試合数)に達している。ただし、そのうち3度は130~136回の間だった」(前述のNEWSポストセブン記事より)。甲斐野は65試合で58.2回。佐藤道郎は68試合で131.2回。甲斐野の2倍以上だ。しかもこの1974年は最優秀防御率(1.91)にも輝いた。本当に素晴らしい。

それだけ投げて、やっぱり甲斐野同様、次の年はけがとか……と思ったが、若干ペースダウンしたものの42試合に登板して9勝。その翌年は再びリーグ最多54試合に登板し16セーブ。2回目のセーブ王に輝いた。結局佐藤は11シーズンで500試合に登板。新人王のほか、最優秀防御率2回、セーブ王2回、最高勝率1回とタイトルもしっかり獲得した。

球は速い。フォークの切れも鋭い。甲斐野のポテンシャルの高さは誰もが認めるところ。佐藤道郎ばりに活躍することは決して高望みではない。それだけに今はしっかりけがを治してバリバリ活躍してもらいたい。コロナウイルスの影響で開幕が大幅にずれ込んだら、例えば交流戦がなくなり130試合制に戻ったりするのかも。その時は体をいたわりつつ、佐藤道郎の68試合登板もぜひ目指してもらいたい。

セ・リーグも指名打者を取り入れるべきか~ソフトバンクは日本シリーズでセ6球団全倒

NHKが開幕前恒例のプロ野球監督談義をやっていた。先にセ・リーグ。前年優勝でトークも滑らかな原辰徳監督がいきなり、指名打者制について切り込んだ。皆さんはどうお考えかと。

印象に残ったのは導入に慎重な考えも示した高津新監督。継投という野球の奥深さに影響があろう、という考え方は抑え経験者からすれば当然だ。ごく稀にヒットが打てるピッチャーもいるが、普通、ピッチャーの打順は打線の切れ目。ゆえに今投げているピッチャーに打席が回るのであれば、続投させるか交代させるかは考えねばならない。

指名打者制はその逆。セ・リーグではウイークポイントのその打順は、パ・リーグなら強打者を配置できる。原辰徳が言うように打線に(ピッチャーが)一息つける所がないからピッチャーはずっとそれなりの力や気配りで投げなければならない。それがパ・リーグのピッチャーのレベルアップにつながっていると言いたいらしい。大リーグを見ても田中将大ダルビッシュ大谷翔平菊池雄星、平野と並ぶとパ・リーグ出身者が目につく。マエケンセ・リーグ出身で頑張っているが。この辺りも指名打者制の副産物なのか。大リーグには行っていないが千賀や有原もいかにもパ・リーグで鍛えられた感がある。いいピッチャーがいるからか、交流戦は2019年にパ・リーグが10年連続勝ち越しを決めた。これまで15度の開催で、セ・リーグが勝ち越したのは2009年の1度だけ(元ネタはfull-count記事)という。

日本シリーズではソフトバンクがこんなことも。
「05年に親会社がソフトバンクとなって以降、日本シリーズで11年に中日、14年に阪神、15年にヤクルト、17年にDeNA、18年に広島を破っており、今年の巨人でセ・リーグ全6球団に勝利となった」(ソフトバンク日本一 日本シリーズでセ全球団に勝利、毎日新聞2019年10月23日)。しかも直近の2019年日本シリーズソフトバンクが巨人に「4タテ」。セ・リーグで勝ち上がってきた巨人を、である。

圧倒された原辰徳が熱く指名打者制導入を支持するのも理解できる。全体のレベルアップにつながるならやりましょうという考えならば。だが私は継投を見たり考えたりするのが好きなので、セ・リーグはこのままでもよいのでは……なんて思っている。パ・リーグとて継投はあるが、セ・リーグ式の継投はその時投げているピッチャー続投の可能性もまあまああるパターンなので、もう1イニングいきますかいきませんかの「悩ましさ」を見たい、というのが趣旨である。この辺りになるともはや分かる人にしか分からない面白さかもしれないが。最近はイニングまたぎなる言葉も定着するくらい、抑えピッチャーすら続投の場面はどんどん減っていて「あ、続投です、続投です」とアナウンサーが高揚しながら伝えるフレーズが聴けずちょっとさみしい。

継投論 投手交代の極意 (廣済堂新書)

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ソフトバンクファンの私は破壊力のあるパ・リーグが栄えつつ、セ・リーグには愚直に伝統文化を継承してもらえればという非常に都合のよい考えで恐縮なのだが、そこそこ投げきれるピッチャーも育てるようにしておかないと、完投数も選考基準となる沢村賞ピッチャーも出せなくなるわけで。それぞれのリーグなりの面白さを併存してもいいんじゃないかなと思うのだが、皆さんはどう思われるだろうか。


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