黒柴スポーツ新聞

ニュース編集者が野球を中心に、心に残るシーンやプレーヤーから生きるヒントを探ります。

金田留広、1974最多勝&MVPの復活劇~128勝の男逝く

金田留広さんが10月2日に亡くなった。世間的には400勝投手・金田正一の末弟なのだろうが通算128勝を考えると兄の名を語らずとも十分記憶に留められるべき投手である。今回は久々のマニアック路線。金田留広トリビアを集めてみた。

 金田留広最多勝に2度輝いた。最初は東映時代の1972年で20勝。これは入団4年目だが2年目に24勝しながら1勝差で最多勝を逃した。ちなみに25勝はロッテの成田文男だった。この頃のタイトル争いは本当にえげつない。



2度目の最多勝はロッテ移籍初年度の1974年で16勝。そう、ロッテの創設以来2度目の日本一に貢献したのだった。かつて最多勝争いを演じた成田(9勝)、村田兆治(12勝)、木樽正明(13勝)との「四天王」で守り抜いた(近藤唯之「プロ野球 優勝その陰のドラマ」より)。そう、金田留広東映~日拓の5年間で84勝もしながらトレードされたのだ。


と言ってもこの場合は実兄が絡む。金田正一がロッテの監督で獲得に動いたのだ。トレード相手は野村収。こちらも通算121勝のいぶし銀である。1973年の金田留広は7勝16敗。野村収は6勝10敗。似たような成績だ。兄の目から見たら弟がくすぶっているように見えたのか。はたまた自軍を強くしたい一心だったか。結果的に金田留広は輝きを取り戻し、最多勝だけでなく1974年のパ・リーグMVPに輝いた。(ベースボールマガジン社プロ野球トレード史」別冊週刊ベースボール新年号=平成3年より)。今回、金田留広の訃報はロッテが発表したが、ロッテでの貢献度を考えると妥当である。


金田兄弟だからできたことでもあるが、とはいえ、請われて移籍して日本一。前年度負け越しからの最多勝はなかなか派手な復活劇でカッコいい。なお、資料は見つからなかったが次の移籍先の広島でも1979、80年の2連覇に貢献したという。ベースボールマガジン社「激動の昭和スポーツ史②プロ野球 下」には1980年のペナントを持ってのカープ優勝記念写真が掲載されており、最前列右端に金田留広の姿が確認できた。これが日本一かリーグ優勝どちらのペナントかと分からず、調べてみた。写真後方のスコアボード上には「RCCラジオ」「RCCテレビ」とあるから広島市民球場に違いない。1980年の広島は甲子園で優勝を決めたから、このペナント写真は広島市民球場で行われた近鉄との日本シリーズ第7戦後に撮られたものだろう。

ちょっとペースアップ。金田留広はホームランとも縁がある。打力があり13本もホームランを打っている。兄・正一は38本。なかなかの兄弟である。さらに二人とも「投手自らの本塁打による1-0完封勝利」経験者だそうだ。また、打たれ方も豪快。金田留広は2年連続最多被本塁打経験者だが、特に1971年に喫した42本は井本隆(近鉄)、山田久志(阪急)と共にパ・リーグ記録。日本記録でもあったのだが池谷公二郎(広島)の48本に塗り替えられてしまった。またまた兄が登場するが金田正一鈴木啓示(近鉄)に破られるまで被本塁打最多記録保持者だった(金田正一=379、セ・リーグ記録。鈴木は560で日本記録)。何とも豪快な兄弟である(宇佐美徹也「プロ野球記録大鑑」より)。 

金田留広のオレは金田ファミリーの駄々っ子だ (1983年)

金田留広のオレは金田ファミリーの駄々っ子だ (1983年)

 

 


兄の400勝が異次元すぎて金田留広の128勝やMVPがかすみそうだが、なかなか味のある野球人生に思える。そして、手元にロッテ時代と広島時代のユニフォーム姿の野球カードがあるが、どちらもシブい。東映時代のユニフォームも見たかった。逆にレアな日拓ユニフォームが「プロ野球トレード史」で確認できた。本日の収穫である。 

プロ野球トレード光と陰 (新潮文庫)

プロ野球トレード光と陰 (新潮文庫)

 


名選手の訃報は寂しいが、記録や記憶は残るものだ。その都度、死を悼みながらも敬意を込めながら振り返ってみようと思う。

金田留広 通算434登板 128勝109敗2セーブ