黒柴スポーツ新聞

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道徳「星野君の二塁打」の主人公は星野君じゃない

道徳教材「星野君の二塁打」について日テレの「シューイチ」で取り上げていた。野球好きとしては、面白そうな題材だなとマークしていたのでそのまま見続けた。

新版 星野くんの二塁打 (子ども図書館)

新版 星野くんの二塁打 (子ども図書館)

どうしてもテレビの1コーナーだからあらすじもぎゅっと圧縮せざるを得なかっただろう。とりあえず、同点の場面で一塁ランナーを送る作戦を監督が指示するも、打てる予感がした星野君はバットを振り、ヒットになってチャンスは拡大。結果、チームは勝つのだが…という流れと分かった。

尾木ママの解説では、規則の遵守がテーマではあるものの、いろんな考えがあっていい。なのに教科になると「答え」があるわけだからそこに子どもたちが「寄せていく」懸念があるという。確かに。

コーナー内でストーリーの感想を求められた中丸雄一は「小学生が自己判断でやったなら大したもん」と言っていた。これも同感。しかしネットで原作を探したらこれは1947年の作品がベースで、中学野球と表記されるも「甲子園」という単語が出てくることからいわゆる旧制中学の話ということになる。つまり生徒らは現在の高校生世代。小学生の対応と高校生の対応とではとらえ方が違ってくる。

ただし高校野球こそ監督は絶対。結局、ルールの尊重を求める題材になるのだ。

こう書くと原作は、1947年という戦後間もない混乱期ということもありまだまだ古い価値観だろと一刀両断したくなるが、意外と内容は深い。星野の一打が鍵となり無事甲子園切符を獲得するも、後日監督は星野の出場禁止を告げる。チームとして決めた作戦を独断で変えたからだ。

星野の一打はあくまでも結果論で、強攻策が裏目に出た可能性もある。負けたら星野は戦犯だった。学生野球は勝ち負けだけじゃないから、星野の行動は許されない。自己犠牲の心がない人は社会に出ても貢献できない。監督はそう説明し、星野もそれを受け入れる。

特筆すべきは監督が、星野を外すことで甲子園1回戦負けもやむなしと語っている点だ。ここは指導者として割りきっているなと感心してしまった。ちなみに星野は投手でもあり、しかも甲子園行きの試合で殊勲打を放っている。負けたら「なぜ星野を使わなかった?」と非難されるのは避けられない。それでも、敢えて。目先の1勝よりチームプレーを心掛けよと諭す監督は決してただ古いだけの人には思えない。

まあ、学生野球に教育的要素をどれだけ持ち込むのかは人それぞれ。だからいまだに明徳義塾による松井秀喜5敬遠は消化されていない。あれこそ見方によっては究極のチームプレーとも思うのだが。

甲子園が割れた日―松井秀喜5連続敬遠の真実 (新潮文庫)

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野球界で星野と言えば星野仙一が圧倒的。奇しくも星野仙一は原作と同じ1947年生まれ。作中の星野を「投手」と設定した作者、吉田甲子太郎は1957年没だから投手・星野仙一の活躍を見ることはなかったわけでまさに偶然だ。もし「星野君の二塁打」に続編があり、星野君が監督になっていたら、一打逆転のチャンスに犠牲バントをせず独断で強攻した選手をどう評価しただろうか。監督の気持ちが痛いほど分かっただろうか。まさか鉄拳…これじゃあ道徳の教科書には載らないか。

結局、「星野君の二塁打」は星野君ベースで語るより監督ベースで噛みしめる方が味わいがあると思うのだがいかがだろうか(道徳の時間ではありませんので答えはありません)。

なお、この二塁打を打った選手が「柳田君」だったら多分問題にはならない。そう、打つ人にもよる、という解釈も書き添えておく。