黒柴スポーツ新聞

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菅野智之も脱帽、74年前に6試合連続完封した藤本英雄~故障から復活し1950年に史上初の完全試合

先日、過去に書いた斎藤雅樹の記事が黒柴スポーツ新聞内の注目記事に浮上していた。何でだろう、と思いながらニュースをチェックすると菅野智之が3試合連続完封をしたのだった。1989年の斎藤雅樹以来28年ぶりの快挙という。

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 もっと驚いたのが日本記録は6試合連続完封だという。誰かと思ったら1943年の藤本英雄と分かり納得。なんといっても13シーズンの通算防御率が1.90なのだから。

 

 当然何で6連続完封できたのかという話になる。もちろん藤本英雄が素晴らしい投手だからなのだが、ざっくり言えば昔は打力が今よりも低かったこともある。その分抑えられる確率は高くなる。

 

このあたりは「記録の神様」宇佐美徹也氏のプロ野球記録大鑑にもきっちり書いてある。超マニアックなことにもついていける黒柴スポーツ新聞の読者なら確実に楽しめる一冊なので、財布に若干の余裕がある方はぜひ購入していただきたい。黒柴スポーツ新聞編集局長は中古のものを入手した。

プロ野球記録大鑑〈昭和11年‐平成4年〉

プロ野球記録大鑑〈昭和11年‐平成4年〉

 それによると通算完封の日本記録はスタルヒン(巨人、トンボなど)の83。だがその75%に当たる62完封は戦前に記録。残り21完封が戦後に記録されたものだ。宇佐美徹也氏いわく、「戦後は打撃全盛だから時代背景を考慮しないといけない」。なのでセ・リーグ記録82完封の金田正一が実質ナンバーワンで、74完封の小山正明パ・リーグ記録71完封の鈴木啓示も価値ある数字なのだそうだ。

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 とはいえ完封のうれしさは戦前も戦後も変わらないのでは?と思う。戦前は珍しくなかったとしてもやはりゼロに封じるのは気分がよかっただろう。たとえ草野球レベルでもそれは一緒。7回限定だったとはいえ黒柴スポーツ新聞編集局長もたった1回だけ立ち会ったことがある。

 

その日、ファーストを任されていたが試合途中で完封ペースであることに気が付いた。先輩が一生懸命投げているのだからエラーできんぞと。一塁にランナーを背負ったイニングがあったが、ファーストフライなのにランナーが飛び出したのが目に入った。黒柴スポーツ新聞編集局長はフライをキャッチした瞬間、一塁ベースめがけて頭から飛び込みベースにタッチ。ダブルプレーでピンチを乗り切った。「絶対完封するぞ」という気持ちがあったからこそできたとしか思えない。試合後、キーとなったプレーの一つに「あのファーストフライ」と言われたときはかなりうれしかった。そう、完封はピッチャーだけの勲章ではないのだ。

 

そういう意味では3位ともたつく巨人にとって、菅野智之の完封の意味は小さくない。まとまることで追撃態勢が整うからだ。

ジャイアンツ菅野智之カレンダー2017 ([カレンダー])
 

 それにしても藤本英雄の6試合完封はすごい。このうち4連続目と5連続目は2日連続なのだ。結局62イニング無失点の記録まで作った(この記録は金田正一が64回3分の1まで伸ばした)。藤本英雄ってスライダー投手だろとご存知の方もいるだろうが当時は真っ向勝負を挑んででも勝てていたそうだ。

 

藤本英雄中上英雄)は韓国名を李八龍(イ・パリョン)という(大島裕史著「韓国野球の源流」より)。この本は韓国の野球を学びたい方におすすめの一冊だ。

韓国野球の源流―玄界灘のフィールド・オブ・ドリームス

韓国野球の源流―玄界灘のフィールド・オブ・ドリームス

 

 藤本英雄は釜山駅近くで生まれ、下関商業、明治大、巨人と歩みを進めた。1950年6月28日の西日本との試合で日本プロ野球史上初の完全試合を達成した。1943年にもノーヒットノーランを達成している。

  藤本英雄の主な記録】

シーズン完封勝利歴代1位=19(1943年)

連続完封勝利歴代1位=6(1943年)

シーズン防御率歴代1位=0.73(1943年)

通算防御率歴代1位=1.90(投球回2000以上)

通算最高勝率歴代1位=.697

 

どうだろう。たしかに1943年という時期は気になるところだが、通算記録も素晴らしい。投高打低だったから藤本英雄が6試合連続完封できた、とあっさり言ってはいけないと思う。

 そして完全試合が1950年というのも見逃せない。実は藤本英雄は1947年の1年だけ中日でプレーしている。この時連投で肩を痛めたそうだ。プロ野球記録大鑑によれば温泉治療や鍼、マッサージといろいろ手を尽くして復活を目指した。一時は外野手転向も模索したそうだ。1950年はそういう苦しみの後のシーズンだったのだ。

 

米大リーグの名投手、ハル・ニューハウザー著「ハウ・トゥ・ピッチング」からスライダーのヒントを得た、とプロ野球記録大鑑に書いてあったが、ベースボールマガジン社「GREAT RECORDS『不滅の金字塔』大全集」には、藤本がすでに下関商業時代から外角の球がスライドすることを知っていた、と書いてある。

 力で押しまくれていた1943年に完全試合を達成したわけじゃない。復活を模索して、スライダーやシュートを駆使しての完全試合というところに味がある。ちなみに場所は青森球場で、北海道遠征からカメラマンたちは直接帰京したため完全試合第1号の写真は1枚もないという。

 きょうは完封だけで2400文字も書いてしまった。

 

斎藤雅樹も、藤本英雄も、巨人の歴史に残る名投手であり、野球殿堂入りを果たしている。菅野智之にもぜひ大先輩たちの背中を追ってほしい。

 

名投手たちの記事はこちら。

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