黒柴スポーツ新聞

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平和だからこそ野球が楽しめる~1945年11月23日東西対抗戦でプロ野球興行再開、大下弘が大活躍

新聞を見たら11月23日は戦後初のプロ野球興業試合が行われた日だった。1945年の東西対抗戦である。



活躍したのは大下弘と書いてあった。黒柴スポーツ新聞の本棚から辺見じゅん著「大下弘 虹の生涯」を引っ張り出して読んでみた。本日のテキストである。

大下弘 虹の生涯

大下弘 虹の生涯



大下弘が所属していたのはセネタース。戦前にあったセネタースは1936年に結成された。創立者は有馬頼寧(よりやす)。貴族院議員で競馬「有馬記念」の有馬さんである。セネタースとは古代ローマ元老院議員を意味するという。大下弘が所属したのは戦前あったセネタースにいた横沢三郎が戦後新しく結成したセネタース。監督の横沢三郎は大下弘と同じ明大出身で大下弘を獲得したのだった。



人の運命は結構縁に左右される。



大下弘は学徒動員されて航空隊を志願。戦闘機要員となるも出撃命令前に終戦。戦後プロ野球にホームランの花を咲かせた大下弘がもしも戦死していたらプロ野球の歴史はずいぶん違っていただろう。



東西対抗戦の初戦メンバーを「大下弘 虹の生涯」から抜き書きしておく。

【東軍】
中堅手 古川清蔵(名古屋)
遊撃手 金山次郎(名古屋)
二塁手 千葉茂(巨人)
左翼手 加藤正二(名古屋)
右翼手 大下弘(セネタース)
捕手  楠安夫(巨人)
一塁手 飯島滋弥(セネタース)
三塁手 三好主(巨人)
投手  藤本英雄(巨人)


【西軍】
中堅手 呉昌征(阪神)
遊撃手 上田藤夫(阪急)
二塁手 藤村富美男(阪神)
三塁手 鶴岡一人(近畿)
一塁手 野口明(阪急)
捕手  土井垣武(阪神)
右翼手 岡村俊昭(近畿)
左翼手 下社邦男(阪急)
投手  笠松実(阪急)


そこそこプロ野球選手を知っている自負はあるが知らない人がいる。かなりマニアックである。



戦前に職業野球なり大学野球で活躍した選手ばかりの中、大下弘はフェンス直撃の逆転三塁打など6打席3安打5打点の大活躍。鮮烈なデビューを果たした。



ちなみに小学校時代にも対戦経験がある別所昭(近畿)とも対戦し三振を喫している。黒柴スポーツ新聞の読者なら余裕でスルーしているはずだが別所昭は別所毅彦のことである。



大下弘は第3戦でスタンドインのホームランを放った。第1戦で藤村富美男が外野手転倒に伴うランニングホームランを打っているが「大下弘 虹の生涯」では「正真正銘、戦後初のホームランだった」と紹介している。やっぱり大下弘が戦争で死ななかったことはプロ野球にとって大きな意味があったのだ。



大下弘は生き延びたが沢村栄治も吉原正喜も景浦将も戦死した。プロ野球選手でなくとも多くの人が亡くなった。その中にも大勢の野球好きがいたことだろう。吉原正喜については以前黒柴スポーツ新聞でご紹介したノンフィクション作家・澤宮優氏の著書「巨人軍最強の捕手 伝説のファイター吉原正喜の生涯を追う」をぜひご覧ください。

巨人軍最強の捕手―伝説のファイター吉原正喜の生涯を追う

巨人軍最強の捕手―伝説のファイター吉原正喜の生涯を追う



大下弘とキャッチボールをした操縦見習士官は大下弘の言葉を、戦後プロ野球復活に際し思い出したという。



「平和な時代だったら、こうして野球ができるのになあ……」(「大下弘 虹の生涯」17ページ)



今年は行くことができなかったが球場に行くといつも思う。平和な光景だ、と。大切な人と、仲間と野球を見るのは平和だからできるんだ。万単位の観客はゲームセットと同時に家路につく。同じ数だけ帰る所がある。その家でほのかに灯る電球の光、それが平和の灯りなのだ。




きょうの1枚は大下弘首位打者3回、本塁打王3回。なかなか存在感のあるタイトルの取り方である。野球カードなどで見る大下弘の構えはやけにグリップの位置が低く見えるが打つ時一旦は持ち上げるのだろうか? 1試合7安打の記録を持っている。固め打ち、見習いたい。
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