黒柴スポーツ新聞

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キャラを第三者が勝手に設定するな~指名打者で開花した石嶺和彦

苦手なことを無理して克服するより、得意なことを伸ばせばいい。そんな主旨の話をイケダハヤト氏がしていた。氏の文章はなぜかいつもイラつかされるがこれに関しては同感。苦手なことに挑み乗り越えるのが美徳とされている中で過ごしてきたが、大きな流れの前に疑問すら感じなかった。今からでも遅くない。逆側の価値観に脱出中だ。


そんな思いを強めたのは石嶺和彦についての作品を読んだから。海老沢泰久著「ヴェテラン」の「指名打者(石嶺和彦)」としてまとめられている。


石嶺は指名打者として知られるが豊見城高校時代も阪急入団後もキャッチャーだった。しかしキャッチャーが嫌いだった。責任は取らされるのに誉められることはない。損なポジションととらえていたのだ。


その上、ひざを痛めていた。さらに阪急にはキャッチャーが揃っており石嶺は5番手だった。ようやく試合に出られるようになったらひざが悪化した。もう外野手として取り組むしかなかった。


キャッチャーミットを捨てたらみんなに言われた。「気の毒にな。ずっとキャッチャー一筋でやってきたのに」。よくあるパターン。勝手にその人の守備範囲やキャラを設定する人はどこにでもいる。しかし石嶺はニコニコしながら「ムチャクチャうれしいですよ」と答えていた。誰も石嶺の本当の気持ちを知らなかった。


プロの世界は甘くない。簑田がけがで外れたチャンスもものにできなかった。だが代打ホームランを6本打つなど頭角を表し始めた。指名打者として使われるようになっていった。


1986年、開幕試合で初のスタメン起用。六番、指名打者だった。一打席勝負の代打より4打席ほど回ってくる先発起用の方が気持ちに余裕があった。そう、落ち着くことさえできたらもっと輝ける人はいる。


ついに打撃ベストテンのトップに立ったり。王貞治の55試合連続出塁を56に塗り替えたり。ブーマーと松永浩美を従えて四番に座ったり。何だか自分のことのようにうれしくなる。


石嶺が浮かれて浴びるほど飲み歩いて肝臓を悪くしたのは仕方ないのか。プロ野球選手としてはいかがかと思うが、結婚できたこともあって最終的に1987年は3割1分7厘、ホームラン34本、打点91と好成績を残した。

南海から門田博光が移籍してきたこともあり、石嶺は指名打者になったり外野を守ったり。ポジションが一定じゃないのは確かに調子が狂う。成績が安定しなくなってしまった。こういう人材の渋滞は何とかならないものか。

初期の指名打者たちは守備につかないことでバッティングの調子を落としたり、欠陥があると見なされたりしてそのポジションを敬遠ぎみだったが、石嶺は指名打者になることに抵抗がなかった。それどころか試合中味方の守備の間はベンチ外をうろうろしたりロッカールームで巨人戦を見ていたりして出番になると打ちに行っていた。門田は指名打者でも試合に入り込めるよう守らなくてもベンチで立ちっぱなしだったというから、石嶺は新しい価値観だ。


石嶺が成功したのは「べき」論を排除したからと見ている。捕手で入団したら捕手で勝負すべき。指名打者は守らないならベンチにいてグラウンドの選手と気持ちを一つにすべきだ…。べき論にとらわれず、石嶺は自分のやり方で勝負した。ただし門田の代わりに外野を守ることで変化が生まれるのだが、それはぜひ「ヴェテラン」で確かめていただきたい。

ヴェテラン (文春文庫)

ヴェテラン (文春文庫)

きょうの1枚は石嶺和彦。タイトルは打点王が1回。87年には6試合連続ホームランを記録した。こういう選手でも一軍半の時代がある。配置転換で人は大化けすることがある。石嶺の指名打者は大成功だった。あの人はあれしかできないなんて第三者が決めつけてはその人の可能性を狭めるだけだ。石嶺はキャッチャーの経験より自信のある飛距離に賭けた。得意なことがある人はどんどんそれを伸ばしていけばいいという例を石嶺は教えてくれた。

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