黒柴スポーツ新聞

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魅力がある人なら何度でも声が掛かる~ドラフト最多5度指名を受けた藤沢公也

40社受けて内定が出ずフリーで生きると宣言したブログに目が止まった。内容は賛否両論あると思う。本紙は共感できなかった。


黒柴スポーツ新聞編集局長も就職活動数十連敗中は世の中に必要とされていないのかと自信喪失したが、入社試験に落ちたからといって自分を否定なんかしなくていいんだと信頼する方に諭されて踏ん張れた。苦しい時に切磋琢磨した友人は一生の宝物でもちろん今も付き合いがある。


受からなかったのは個人が否定されたのではなく、採用する側と求職者のマッチングがうまくいかなかったにすぎない。だから本当にほしい人材になれば何度でも声は掛かる。きょうはドラフト史上最多5度指名された藤沢公也の話をしてみる。きょうの1枚は藤沢公也。

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ベースボールマガジン社の野球カード裏の解説によると藤沢公也は愛媛県出身。まず八幡浜高で1969年秋にロッテが3位指名。しかし社会人の日鉱佐賀関に行きそこでも71年にヤクルトが11位指名した。これも拒否して73年にまた近鉄が4位指名したが入団には至らなかった。


逃げられたら追いたくなるものなのか、プロ側の意地なのか。76年には日本ハムが2位で指名した。ここでついに藤沢側がプロ入りに傾くが一説には契約金を値下げ提示されて破談となった。だが脈ありと見たのか翌77年に中日が1位指名。一時11位指名だったのがついに1位指名…。


ウィキペディアを見たが、1975年からは他チームへの補強も含め4年連続で都市対抗に出場。指名順位を見る限りどんどん藤沢の評価は上がっていったのだ。それでも藤沢はプロ入りを悩んだ。ネットで見つけた記事(週刊ポスト2013年11月8・15日号)によるともう26歳で家庭もあり、安定した人生か夢かで悩んだという。


「最初に指名された時は、やっていける自信がなかった。でも社会人エースと言われる中で、プロでやってみたいと思うようになってきたんです。年齢的にも今しかないと思ったし……」。記事の転載にはそんな言葉が書かれていた。藤沢はついに78年秋にプロ入りした。


5度も指名された男はどんなピッチングをするのか。良くも悪くも注目が集まり、プレッシャーも相当あったことだろう。しかし藤沢は13勝を挙げ79年の新人王と最優秀勝率に輝いた。


実は藤沢はチームメイトの小松辰雄の投球を見て挫折感を味わっていた。小松は藤沢より指名順位が一個下の2位。その人に負けたと思うのだから人生は分からない。小松の速球は有名だから別に藤沢が劣等感を感じなくてもよさそうだが、やはり同じポジションの人だと気になるものか。藤沢は投手コーチだった稲尾和久の助言を受け、遅いパームボール(チェンジアップ説もある)に活路を見いだしたという。変化ができない人はそこまでなのだ。

稲尾コーチも「ならばもっと遅い球を投げてみるか」とコンプレックスの球の遅さを開き直らせたところがすごい。部下の気持ちが分からない上司、特に有能だった人なら「だったらおまえも速い球を投げるようになれ」と言ってしまうだろう。

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順調なスタートだった藤沢も2年目は1勝15敗と惨敗した。これだけ見たら社会人エースでいた方がましだったとか考えたり言われたりしても不思議ではない。黒柴スポーツ新聞編集局長が藤沢を何よりカッコいいと思うのはその後5シーズン、通算7年プロでやったことだ。藤沢はプロに入ったからこそ見られたもの、感じられたものは山ほどあったに違いない。


通算27勝35敗。燦然と輝く記録ではないが、藤沢の生き方は採用する側やビジネスパートナーにとって魅力が感じられる人である限り何度でも声が掛かるということを表している。ただしあくまでも誘う側にとって魅力があるかということで、その人自身の魅力があるかないかとは別の話だ。


魅力がない人にはいつまでたっても声が掛からない。今年の就職戦線はもう一段落したかもしれないが、これから社会人になろうという人はぜひ自分らしさを大切にしてほしい。黒柴スポーツ新聞編集局長も魅力を感じてもらえる書き手を目指しているので、一緒に自分磨きに励みましょう。


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