黒柴スポーツ新聞

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悔しさを感じなくなったら成長は止まる~ルーキー星野仙一の気概に賭けた水原茂監督

悔しさがなくなったらその道では引退、と思う。もっとうまくなりたい。もっと追求したい。プロ野球選手であれ、サラリーマンであれ、研究者であれ、向上心がなくなるイコールモチベーションもなくなる、と思うのだ。


中日ファンでもないのに中日時代の星野仙一が好きだ。プロに入った時から負けん気が強かった。このことはベースボールマガジン社が出した「中日ドラゴンズ70年 昇竜の軌跡」に収録されている星野のインタビューにあるエピソードで知った。


ルーキーの年、ある試合でノックアウトされた。悔しいのでコーチに次の試合も投げさせてくれと直訴した。ローテーションはもう決まっている。困ったコーチは水原茂監督に相談した。「投げさせてやれ」ということになった。


頼む方も頼む方だが任せる方も任せる方。新入社員がミスした直後にもう一回チャンスをというのも度胸がいるし、管理職としてもすぐ結果が出るかは分からない新人をまた送り出すわけだから成功しなければ責任が問われかねない。第一、もともとの出番が決まっていた投手との兼ね合いもある。


水原監督に送り出された星野は今度は好投したが味方のエラーもあって1-2でまた試合を落としてしまった。くそーとロッカーでうつむいていたら水原監督が現れた。


「よう頑張ったな」「おまえのような男がこれからの中日ドラゴンズを背負っていくんだ。そういう気持ちを忘れるなよ」

普段監督が選手のロッカーには入ってこない。水原は星野の悔しさが分かっていたのだ。星野は涙が止まらなかった。そして水原に心酔していったという。星野はインタビューで「こういう感じで師弟関係はつくられる」と語っていた。単に上司と部下の間柄で関係性ができるわけではないのだ。

星野の目には、水原は選手を我慢して使い続ける人と映っている。張本勲大杉勝男東映時代。芽が出なかった王貞治は巨人時代に使い続けた。星野自身が立浪和義福留孝介を使い続けたのは水原の姿勢に共通している。



古くは西鉄三原脩監督が豊田泰光を使い続けた。エラーで痛い目にあっても使い続けた。それに応えて豊田は名選手になった。使い続けられた選手はきっと粗いながらキラリと光るものがあったのだろう。新入社員としたらまずはそのあたりを感じさせねば道は開けない。


もしかしたら水原監督は星野が負けることも覚悟の上で送り出したのかもしれない。勝とうが負けようが星野の気持ちを尊重して登板させることを優先したのだろう。懐の深い上司である。逆に余裕のない上司はこう言うだろう。

「チャンスを与えてやったのに、どうしてくれるんだ」

経験を積んでいくと、これはこうだった、これはこういうものだと慣れてきてそれなりの仕事ができる。だから失敗をしないが反省もしなくなる。伸び悩む30代がいるとしたらそのあたりが要因と黒柴スポーツ新聞編集局長はみている。


本業でも日々見出しを考えたり、写真のサイズや配置位置を考えたり、文字のフォントを考えたり、どの記事を載せるか判断したり、どんな取材をしてこようかと考えたりしているが、前よりいいものを目指さないと劣化が始まる。定型のものなら以前よりも速く丁寧に仕上げる。そうしないと仕事が単なる作業になってしまう。


星野にとっての水原監督のように、黒柴スポーツ新聞編集局長が心酔する上司から教わったことだが、「仕事はその人だからこそできるもの、作業はその人じゃなくてもできるもの」という考え方がある。元日から始めたブログも若干の取りこぼしはあったもののほぼ毎日更新が上半期はできた。日々読んでくださる皆様には感謝の気持ちでいっぱいだ。一方で若干のマンネリ感も否めない。SNSを使わずにやっているがこうした方法も含め改善すべきかもしれない。このへんは今後の課題だ。


何はともあれなんだこの記事は、中身がないぞなんて言われないように記事そのものの充実が第一。書き終えた直後の手応えのわりにアクセスが少なくて星野ばりにロッカーで悔しがるくらいの記事を書かねばならない。水原監督のように我慢強く見守っていただければ幸いです。引き続きご指導ご支援よろしくお願いいたします。


きょうの一枚は星野仙一。腹部の番号が22だが、デビュー当時の背番号は22。杉下茂権藤博が付けた20になるのは71年から。背番号も実績をつけて受け継ぐと様になる。それにしても22の時代のこの写真もいい面構えである。


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