黒柴スポーツ新聞

ニュース編集者が野球を中心に、心に残るシーンやプレーヤーから生きるヒントを探ります。

2007年日本シリーズ山井岩瀬完全試合継投を今更ながらぶり返してまたうやむやにする

先日録画しておいた「村上信五とスポーツの神様たち」をようやく見た。プロ野球の名場面を列挙するというので興味があったのだ。

 

前後編あったがゲストが挙げた名場面は以下の通り。番組での紹介の仕方に語句を補足して並べてみよう。

秋山幸二球界初のバック宙ホームイン

北川博敏の代打逆転満塁サヨナラ優勝決定ホームラン

沢村賞投手斉藤和巳涙の降板

松井秀喜ドーム最後奇跡の50号

・女子の心をつかんだ杉内俊哉涌井秀章の投げ合い

山井大介岩瀬仁紀の非情過ぎる継投でシリーズ完全試合の珍記録

・シリーズでの田中将大160球後の魂の15球

・ブライアントが限界ギリギリで放った4連発

 

野球通、スポーツ通が吸い寄せられるようにやってくる黒柴スポーツ新聞なので一つ一つの事柄のおさらいはしない。見たら分かることばかりである。が、正直に言えば松井秀喜のエピソード(ゲストの高橋尚成セレクト)は知らなかった。この話はシブすぎやな(と言い訳しておく)。

それぞれ今後ネタになりそうなものばかりでもあるのでさらっといきたい。ちなみに杉内俊哉涌井秀章の話はすでに触れた。思い出したが甘利明大臣の疑惑解明はどうなったのか。今年は疑惑や不倫や不正からの謝罪が目白押しだが冷静に見れば新しいネタが前のネタをうやむやに、もしくは薄味にしているだけである。甘利氏は会見で矜持という言葉を発したのだからプライドを持って説明責任を果たすべきだと思うがいかがか。のど元過ぎれば何とやらというのであれば、国民の追及も余りに甘い。

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さて、上記の名場面中、本紙がいまさらながらぶり返したくなったのがある。中日の完全試合継投だ。最初はプロ野球ファンらしく落合博満監督の非情の采配に疑問、不満を持った。夢を売るのもプロだから山井大介続投論者だったのだ。

しかしあらためて見るとあのシリーズで中日は53年ぶりの日本一になっている。この事実は重いので、黒柴スポーツ新聞は落合博満の評価をがらりと変え、あの継投は今更ながら「あり」とする。落合博満の功績は日本一に導いたことではなく、勝負に徹する姿勢を中日関係者に見せつけた点だ。これくらいやらないといけない。いや、やらなかったからこそ半世紀以上も栄光をつかめなかったんだよとの強烈なメッセージだったのだ。

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監督の責務はチームを勝利に導くことだ。2軍監督のように育成が仕事の人も一部いるが。だから落合博満がその時の最善策として完全試合続行中の山井大介を降板させ、岩瀬仁紀をマウンドに上げる選択をしたのは今は納得できる。なお、投手交代は森繁和コーチの裁量が大きいというのも考慮せねばならないが監督は総責任者。手にする栄光と引き換えに監督は全責任を日々負っている。だからこの一件の賛否は落合博満が引き受けねばならない。まあ一般企業では部長が責任を負わず課長がやり玉にあがったりもするが。

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黒柴スポーツ新聞は全面的に落合博満を支持するようになったのかと言えばそれも違う。落合博満は継投劇の舞台裏を聞かれた時「マメ」を理由としていた。それが事実なのかもしれないが落合博満はもっと堂々と「代えるのが最善だった」と突っぱねてよかった。その方がもっとかっこよかった。冷静なファンは知っているが試合のスコアは1-0だった。ここで夢を乗せて山井大介を続投させることと、「当時」絶対的な守護神だった岩瀬仁紀をマウンドに上げることを天秤にかけ岩瀬を選び見事3者凡退で締めた落合博満が一番かっこいいのだ。あの状況で三人抑えた岩瀬も素晴らしい。岩瀬にしかできない。そのことを中日ファンは誰より知っている。

なのに「マメが」。あの落合博満をして釈明風に話さねば収まりがつかないほどの案件だったのかもしれない。「村上信五とスポーツの神様たち」では山崎武司が「山井は(降板の真相について)オブラートに包む」と言っていた。そりゃ包むわな。山井大介落合博満だもん。いや、山井大介じゃなくとも落合に対抗できる人はいない。「おれより歌がうまいのは美空ひばりさんくらい」という松山千春イコール長嶋さんを尊敬する落合博満みたいなもんだから落合に物申せる人などいないのだ。

 

まあプロ野球の伝説は多少尾ひれがつくくらいがその後何十年と語られるにふさわしい。山井大介降板の真相は素敵にうやむやにしておこう。最低限でも中日ファンがもう納得しているなら他球団のファンは何も言うことはない。しつこいようだが甘利氏の一件をうやむやにするのとは訳が違うのである。