清原に見習ってほしかった元西鉄・河野昭修氏の生き方
いきなりお礼から
ありがたいことに、ここのところ、五月雨式に読者が増えている。
最初はこちらがブログ開設を告知した知り合いのみ。
しかも連動させているFacebookでやっと来ていただけていた。
いまもその要素はあるが、比率は日を追うごとに減っている。
うれしいのはわざわざ検索をしてたどり着く方々の存在。
世の中、通はいるものである。
「いつも読んでいただきありがとうございます」
何かしらのお得感を
一人ずつお礼を申し上げたいところだが、まとめてお伝えさせていただいた。
貴重な時間を割いて読んでいただくのだから、何かしらのお得感はお土産にしてもらいたい。
※2008年版ベースボールマガジンの野球カードを使わせていただきました。
川島慶三よりしぶい
川島慶三ですら「しぶいチョイス」という感想をいただいたが、今回はさらにしぶいかもしれない。
まさにいぶし銀の選手である。
地元の高校出身ということで博多っ子には人気があったという。
チームメイトには「ヤンシュウ」「ヤンシュウさん」と呼ばれていた。
これは本紙も元西鉄選手から確認済みである。
一喜一憂するな、失望するな
実働8年。
タイトルなし。
定位置は三塁、ショート、セカンド、一塁と転々とした。
このことについて、豊田は「一喜一憂するな、失望するなという教えそのもの」とスポニチ記事に書いている。
恐ろしい単能工
これにも書いてあったように、どこでも必要とされる人は素晴らしい。
皆さんの職場はどうだろうか。
本紙編集局長は数年前、「単能工という言葉を知っているか」と尊敬する上司に聞かれ、背筋が凍る思いをした。
それしかできない人。
もちろんスペシャリストとは全くの別物だ。
単能工。
何という悲しい響き、語感、字面であろう。
河野はまさに対極にある人だった。
行きついた一塁の守備は一級品だったという。
ダイコン切りで巨人斬り
河野で語られる場面は1957年に巨人と戦った日本シリーズ第2戦。
見逃せばボールという高い球を藤田元司から打ち、サヨナラ勝ちをもたらした。
チームメイトの河村英文著「西鉄ライオンズ 伝説の野武士軍団」ではサーカス打法と書いてある。
ダイコン切りで、両足は地面から10センチも浮き上がっていた、のだそうだ。
なお、この本は西鉄ナインの破天荒ぶりをざっくばらんに書いている。
明らかに書きすぎである。
本紙編集局長一押しの吉村功アナウンサーなら「こんな野球本読んだことない!」と絶叫するに違いない。
はっきり言って面白すぎる。
なお、元・日刊スポーツ編集局長の森山真二さん著「わが青春の平和台」ではこのくだりが「第3戦」として出てくるが、同じ場面に思える。
この本では河野自身が「ストライクと思ったが後で見るとボール球だった」と振り返っている。
この本は一人ひとり、選手ら西鉄ゆかりの人々を丁寧に紹介している。
西鉄本としても欠かせないだろう。
なぜ河野なのか
なぜ今、河野を紹介したいのか。
現役引退後の彼の映像を見たことがある。
再度探してみたがネット上では見つからなかったので記憶を頼りにする。
福岡放送局の作品だろうか。
かつての選手を追っていた。
元監督の川崎徳次はうどん屋さんだった。
※2008年版ベースボールマガジンの野球カードを使わせていただきました。
川崎の本は購入済みだが、あまりの分厚さに読むことができていない。
本物かどうか不明だが、アマゾンで購入したところ、本にサインが書かれていた。
映像を文字に起こしたものを保存しておいたので掲載する。
「おかげでね、ぼちぼちやってますけど。野球やってたおかげでなんにもできっこないから、いまでもふうふういってるくらいだからねえ。数多くの知り合いができたことはプラスだったと思いますね」
一生懸命うどん屋さんやって、ふうふういうのって、悪くないと思う。
※2002年版と2006年版ベースボールマガジンの野球カードを使わせていただきました。元の写真は同じものと思われる。2006年版は綱島理友さんの彩色。素敵です。
百貨店の清掃係
その番組で、河野はたしか百貨店で清掃マシーンを使って床を磨いていた。
すごく汗をかいていた。
すごい汗だと言われると「こんなもんじゃないです。まだかきますね」。
現役時代を振り返っていろんなことを言っていた。
「ファームから苦労して這い上がってきて、私の体で3連覇の一員になれた」
「ファームの苦労ちゅうのは忘れられません」
「やはり西鉄の9番を背負ってます。いまでも背負ってます、常に9番であると」
「もう人から後ろ指さされないように」
「燃えに燃えました、燃えつくしたといってもいい」
これらすべてのフレーズを今、日本で最も聞かせたい男がいる。
そして確信した。
心のきれいな人にしか、きれいな清掃はできない。
清掃員さんはどうしても縁の下の力持ちなのでこう思ってしまうが、やはり日本選手権3連覇の男がいる職場と見るのは難しい。
グラウンドキーパーもやった
しかし、河野さんはパフォーマンスをしているわけではない。
事実、あの平和台球場でグラウンドキーパーまでやった。
しかも「平和台に恩返しのつもりでやっていました」と笑っていたという。
そのくだりを書いた森山さんと同じく、本紙編集局長も尊敬する。
あの男にも背番号3、あるいは5番の矜持は持ち続けてほしかった。
河野さんが9番を背負って床を磨き、グラウンドをならし続けたように。
※2008年版ベースボールマガジンの野球カードを使わせていただきました。
このシリーズでは世界に75枚しかない直筆サインカード。
その選手のこと、球史を知れば知るほど、野球カードは一味違う輝きを放つ。
このカードに出会えたことを幸せに感じている。